2019/07/26

「人間失格」(太宰治)を読んで【高校生用】

――「恥の多い生涯を送って来ました。」――この男は言う。恥とは何であるのか。
 この男、すなわち葉蔵は、人間の営みというものがわからず、自分だけの、人とは違う自閉的な世界に生きていた。つまり疎外感に苦しんでいたのだ。これは葉蔵に限ったこ
とではないだろう。きって、現代人なら誰もが経験していることと思う。小さな虫が触角であたりを探ることを止めず、進路を邪魔する私の手を避けて、いそがしそうにくるくる動き廻っている。右へ行く、左へ行く。また元へもどってくる。どこへ行くつもりなんだろう。どっちへ行っても同じちっぽけな虫のままじゃないか。現代人も、こんな虫とかわりはしない。どこへ行くつもりでどこへ行きたいのかわからないのだ。そしてまわりの人達が幸わせそうに笑っていると、自分だけが他の人達と違うように思えてくるのだ。自分が人間であるのがどういうことかわからず、自分以外の人間も理解できはしない。葉蔵は、この中で生きてゆくために、お道化となった。そして必死に、誰よりも明るく無邪気を装った。私はそれが、何とも言えず切なく感ぜられる。小さな葉蔵がここまで人間におびえて生きていかねばならなかったことに。
 葉蔵は他郷の中学へ進学した。そこで白痴に似た生徒、竹一に自分のお道化を見破られた。そのときの葉蔵のショックは、この世の終りという程のものであった。しかし葉蔵は、竹一が持ってきたゴッホの自画像、すなわち「お化けの絵」を通じて、将来の自分の仲間をみつけた。この画家は人間への強い恐怖をごまかさず、見たままの表現に努力した。そして、お道化でごまかして生きていた葉蔵も、自画像を描くことにより、自分の正体を知ることができた。その自画像は、葉蔵の陰鬱な心そのものであった。しかし、もはや彼はそれを否定しはしなかった。
 彼は誰よりも人間的に生きようとしたと思う。いつまでも同じところをぐるぐる廻っている虫ではなかったのだ。青年期の純粋な心のままに、ありのままの自分を見つづけ
た。その結果、彼は自分に絶望した。今の私もしばしば絶望する。葉蔵とまではいかずとも、今まで信じていたものが、真実ではなく偽りだったことを知って絶望する。だから、若者はいつも葉蔵の良き理解者となることができる。きっと、葉蔵と自分をおきかえることができるからだろう。けれど二十年後の私たちはどうだろうか。この作品を読んで素直に心へしみ通ってくるだろうか……。いつの間にか、自分の心に忠実な青年期を終えて、真の心をかくす世間の皮をかぶってしまい、生活にいそがしく、「人間とは何ぞや」などと考える頭さえ持っていないかもしれない。そして、次の世代の若者を絶望させ、葉蔵を苦しめる存在となるのだ。
 自分が人間であるということについて疑問を抱かない者は漠然と日々を暮し、何をも疑がうことがない。そして、真に人間的に生きようとした葉蔵は、人間として生きることができなくなった。どちらが幸福でどちらが不幸なんだろう。何も考えず、わからないままに人生を過す方がなさけないような気がする。しかし、この様な人間があたりまえであるような世界で、一生孤独に悩みつづけなければならないというのは悲しくてしかたがない。
「恥の多い人生」とは、もしかするとこのことなのかもしれない。人間的に生きようとして悩んだ人ほど、人間的に生きられない自分を知り、恥と感じるのだと思う。
 私は、この作品を読み終えてもまだ、自分がどのように生きてゆくべきなのかはわからない。けれど、人間という存在を考えることで、私の未熟で狭い人生観に大変プラスになった。たとえば、「人間的に生きる」ということをあげてみても、今までなら単に「文化的に暮らすこと」で片付けてしまっていただろう。また、社会の敗北者といえば、だめな人なんだと見ただろう。が、「生きるのが上手・下手」という、そんなことは何の意味も持たないのだ。「人間」とは、「生きる」とは、どれも肯定できず、どれも否定できな
いものなのだ。太宰治がこの作品、すなわち太宰の自己吐露を、私にのこしてくれたことに感謝したい。

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