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2019/08/27

『清兵衛と瓢箪』(志賀直哉)を読んで【高校生用】

 物の価値は、一体どこにあるのだろうか。見かけ、値段、希少性。それらのどれもが、価値を計るに満たないものばかりだ。価値や本質は、個々人の価値観によってつくられている。それを計るのに一般論は役に立たないだろう。価値を探る「目」。それを持っているということは、ある種の能力といえるかもしれない。清兵衛――彼はその希な能力のために自滅してしまったのだ。
 瓢箪――古瓢ではなく、まだ青くて皮つきのものに、十二歳の少年はとりつかれた。何故瓢箪なのか、私は疑問に思った。もっと少年らしいものに熱中すればいいのに、ただの普通の瓢箪。思えばそもそも、これが彼の能力であり異質な才能であったのだ。
 瓢箪の手入れをし、屋台の一つから飛び出た、爺さんの禿頭を瓢箪だと思って眺めていたりと、終始瓢箪に明け暮れる日々。それは充実し、かつ危険な日々だと思う。熱中のしすぎは周囲を見えなくさせるからだ。
 私にもかつて熱中したものがあった。それだけに清兵衛の境遇が痛いほど分かる。理解しようとしない父や教師、強い反発、そして再びのめり込んでゆく自分。周囲の見えなくなった自分をどうして止められるだろうか。しかし運命とは、常に一般論的だ。清兵衛の瓢箪を「価値なし」と判断した彼の父は、瓢箪をげんのうでたたき割ってしまった。この事実を清兵衛は受けとめられただろうか。彼の熱意、努力――それらの結晶である瓢箪。目の前でつぶされる自分のいわば「分身」を見た彼の心は、ぽっかりと穴があいていたに違いない。
 清兵衛の瓢箪に対する思いを無視し、軽んじる大人達に、私は反感を覚えた。物の価値は個々人それぞれであるからこそ面白いと思う。それを否定するのは、人間性の画一化をはかるようなものだろう。
 瓢箪は、清兵衛の内面の具象物ではないだろうか。人の内面ははかりきれない。それゆえ、目に見える形となって自分自身の心を満たす。そんな自分の具象を、誰にも理解されず、清兵衛はどれほど悲しく思っただろうか。私は小学生のころ、牛乳のフタをあつめていた。色とりどりで個性があった。少なくとも、当時の私にとってそれは充分すぎる魅力を持っていた。
 しかし周囲の大人達は、つまらないから捨てろと言った。何がつまらないものか、と思っていたが、結局は親に捨てられた。その時私は半分だけかくしておいた。せめてこの努力の結果を、記念としてでも残したかったのか。それとも「半分ある」という、ただの自己満足や自己欺瞞のためだったのか。
 隠した半分は、いつのまにやらなくなっていた。親にみつかったのか、自分で捨てたのか思い出せない。だが、なくなっていた時に私は悲しんだ気はしない。これでよかったのだ。熱中したものは、人を成長させると役目を終えるのだから。
 清兵衛の瓢箪も同じだ。彼の瓢箪は割られ、彼を一まわり大きく成長させた。彼は瓢箪を割った父を恨んでいるだろうか。私はそうは思わない。清兵衛には瓢箪の「役目」が分かっていたはずだから。
 私も清兵衛も、今は別なものに熱中している。かつて熱中したものと同じくらい。結局、人に必要なのは熱中できる「何か」だったのだ。それはもろく崩れやすいが、確実に人を成長させてくれる。
 人には熱中できる「何か」が必要だ。熱中することに生きがいを感じ、活力を得る。人それぞれ「何か」は違っても、それにかたむける努力や熱意は変わらない。熱中することは、実に生き生きとした自分を表現できる。 いわば、言葉ではない言葉で自分を語るようなものだ。
 ところが、他人は外見を気にして、本人が熱中しているものを否定しようとする。もっと将来の役に立つもの、他人様が見ても恥ずかしくないものをと押しつける。だがそれを決める基準があるだろうか。ありはしない。仮に基準があり、皆それにならったとしたら、なんと味気ないことだろう。
 清兵衛は人よりも純粋な心が多かった。瓢箪にひたむきに熱中する彼は、とても輝いていたに違いない。自分の道を黙々と歩み、障害を乗り越えた彼に、私はいつの間にか感情を移入し、拍手を送っていた。
 現代に生きる私達は、他人を気にしすぎるあまり、自分の内面を見失いがちだ。清兵衛は私達に熱中することの大切さを教えてくれる。熱中する彼の姿は、どこか冷めた現代への警鐘だと私は思う。人はもっと熱中して成長しなければならない。
 現代には清兵衛がたりない――。

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『沈黙』(遠藤周作)を読んで【高校生用】

 私はなにも信じてはいない。神も、仏も、信じていない。否、信じられない。
 毎朝、曖昧な頭で新聞を手にとる。新しい紙の匂いと共に、今日もまた、凄惨な事件がこれでもか、と言うほど記事になっている。恐喝、強盗、通り魔、殺人。勿論事故もあるけれど、犯罪の数の方がそれを遥かに上回っている。それだけではない。今、この瞬間も世界のあちこちで、「戦争」と銘うった大量殺戮が行われ、尊い命が散っている。しかも、そこで幾ら人を殺そうと、誰にも罰せられはしないのである。また直接争いに関与していない人でも、「鎮圧」の名のもとに殺されたり、仕掛けられた地雷を踏んで亡くなる事がある。以前、地雷に関する書籍を読んで様々な種類がある事を知った。たった三百円で造れるオモチャ型地雷、子供までターゲットにした殺戮さえ存在する。何故?何のために?私の貧困なボキャブラリーではこの憤りを言い尽くす事など到底叶わない。
 だが、そんな罪なき人々が理不尽に殺されてゆく時でさえ、多くの人が信じているもの、それが神であれ、仏であれ、誰も救ってくれはしない。いつだって遥か高みから沈黙を守ったまま、死んでゆく人々を「見守って」いるだけだ。それは「見殺し」と言いかえられるのではないだろうか、と、長年思い続けていた。
 主人公、セバスチャン・ロドリゴも獄中で同じ事を考えた。信徒達や同僚ガルペが殺される場面に直面させられながら、殉教とは、信仰とは、神とは何かを考え続けた。やがて彼はかつてのフェレイラ師…沢野忠庵の説得により、彼の一つの答えとも言うべき決断をする。そこに迷いはなく、ただ痛みのみが存在するだけだった。そして彼は悟り、涙を流すのだ。穴吊りにかけられた信者達の事について。日本の基督教について。己の弱さ、それを直視することの痛さ。そして、神の沈黙について。
 背教をしたロドリゴ、いや、せざるをえなかった彼の心理に触れた時、頭を殴られたような衝撃を受けた。私もロドリゴと同じではないか!安寧の広がる日常に、少しの疑問と反抗をスパイスにして生きてる私。不条理に対してただ憤るばかりで何も行動していない今の自分。クーラーのきいた部屋でニュースを見、遠く離れたイラクの情勢に憤慨していただけ。そんな人間に一体何が出来ようか。それを自覚するのは酷く痛かった。フェレイラの痛み、ロドリゴの痛み。「痛感」というものはこれを言うのだと初めて理解した。本を閉じればすぐにこの痛みから逃れられるはずだったが、そうする事が出来ない何か特別な衝動にかられて読み続けた。ロドリゴは自分の、他人の全ての弱さを認め、愛し、包み込むようになる。弱き者、キチジローにさえ「行きなさい」と告げるその姿はまるでキリストのようだ。彼は背教して初めて彼の愛する者に一番近づけたのだと思う。
 私は神というものは全能だと思っていた。だがこれを読んで間違っていたことを理解した。神は「痛みを分かつ者」だった。そうすることで神は人々を救うのだ。だから彼は人々が死んでゆくのを止められない。皆にあがめられる神でさえ、人の生死を左右する事等できやしない。神は沈黙していたのでもなかった。救いは自分の弱さを認めた時はじめて与えられるものだった。
 死んで逝った人々を呼び返したい。ということはどういうことを表わすのだろう。当時の受難者達が彼らの目線で、今の私達の日常を見た場合、結構づくめの異常さの文明世界はどんな眺めに映るだろうか。かの時代の人々に、私達の精神世界はどう視えるだろうか。
 あの当時の日本人こそが、死をもって倫理の極みを超えてゆく、そんなひたむきに生きた人々の確かな足跡を創った。歴史や文学で知る彼らの生きざま、それを辿って往く道、代償も求めず痛みを超えて、崇高に紡いでくれた精神を共感する、そんな心の旅も悪くないなと今、思えてくる。
 夏の日射しに熱せられた生温かい風が、微かな音と共に私の横を走り去ってゆく。蝉は競うように歌声を響かせている。私は思う。この風のうなりは平和の事などではなく、世界の崩壊のうめき声ではなかろうか。一介の高校生に過ぎない私に出来る事はないのだろうか。第三次世界大戦ともいわれるこの戦いを終わらせるにはどうすればいいだろうか。それはもう、本当に止まらないのだろうか。いや、きっと出来るはずだ。人が死ぬのを止めるのは神には不可能だ。だが同じ「人間」ならば…可能だろう。すべての人が幸せになれる解決策を見付けるのはきっととても難しい。見付けられないかもしれない。でもどんな形であれ、何か答えはあるはずだ。
 本を閉じたら、まず、自分に出来る事を探しに行こう。痛みを超えて進むことが、救いとなるのだから。


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『黒い雨』(井伏鱒二)を読んで【高校生用】

 私が母の本棚からこの本を手に取ったのは、丁度広島に原爆投下のあった八月六日の翌日かその次の日であったろうと思う。私は、八月六日にどこかの新聞で、或る記事を読んだ。それは、やはり原爆投下に関する記事であったが、最近、原爆投下について「やむを得なかったものである」と認識する若者が増加傾向にあるというものであった。私はその記事を読んだとき、不本意にも、その意見に同調していた。米国では原爆投下が「戦争の早期終結にはやむを得なかった」と言われているということを私は小学生やそこらの歳に初めて知った。確かその時はこれに大きな怒りを感じていたように思う。しかし今、高校に入学して一年半が過ぎ、社会情勢なども考え併せると、確かに、当時の日本のやり方も間違っていたし、たとえ大きな犠牲が払われようとも、戦争を長引かせるよりは良かったのではないかという、妙に落ち着いた気持ちになっていた。
 私はこの『黒い雨』を今までにも何度かとばしとばし読んだことがあった。私は原爆病や放射能の人体に与える影響に殊に興味があったので、この小説での原爆病に関する記述を中心に読んでいた。今回読んだのも、やはりその理由はあったが、折角八月六日に新聞でああいった記事を読んだのだから、最初から読んでみようかという気になったのだ。しかし、最初から最後までを読み通したとき、あまりの恐ろしさに途中何度か読むのをやめたくなった。読めば読むほど、私の頭の中は混乱し、冷静に考えられなくなっていった。原爆のことは何でも知っているつもりだったが、果たしてこんなに恐ろしいものだっただろうか? 読み終わったとき、私は今までなにか大きな考え違いをしていたのではないかと思わずにはいられなかった。
 場面は、戦争から何年も経過し、平和に戻りつつあると思われた頃の或る家庭に始まる。養女の矢須子の縁談がもうまとまりそうだというときに、矢須子が原爆病だという根も葉もない噂が広まる。そこで、養父の重松の書いた被爆日記が先方の誤解を解く為に取り出されたというわけである。そこから、被爆日記と現在を交えて話が進んでゆく。しかし、重松やその他の被爆者についての記述が多く連ねられ、とりあえず原爆直後の無残な光景を目の当たりにして愕然としていると、さらに次の悲劇が待っていた。矢須子が原爆病を発症したのである。婚約がまとまりかけていたために、それをうち明けられず、ほぼ手遅れの状態でそれは発覚した。それから終わりまでは、矢須子の病状を克明に記してある。歯が抜けたり折れたりする。歯茎からは血が流れ出して止まらない。脱毛はなおのこと、腫れ物が次々につぶれては新しくでき、またその繰り返し。私が特に鮮明に記憶している場面は、入院中の矢須子が、夜中、患部のかゆさに泣いていた場面である。看護婦が寝間着の裾をめくると、腕虫がうようよいたというのである。腫れ物の腐敗している部分に卵を産み付けていたのである。現代では考えられないことだ。何の薬を飲めば何に効くのかもわからず、行く先行く先で診断も異なり、ただ病状だけがひどくなってゆくやりきれない女の姿は、まるで目の前で見ているかのように克明に浮かんできた。原爆をただの過去の出来事として記憶していくのはあまりにもあさはかだと思った。
 現代は、物事の色々なとらえ方や考え方が多すぎて、私もよく混乱する。何が正しいのか、何が間違っているのか、その根本までが揺らいでいるように思う。おそらく、私が原爆投下を「やむを得なかった」と感じてしまったこともそうだろう。温室同然で育った私達は、当時の人々が日々を生き抜くだけ、たった今日一日を生きるためだけにどれだけの労力を費やしていたかを知らない。
 途中「水とはこんなに旨いものであるか」という重松の言葉があった。丁度この夏は猛暑であったが、のどが渇いたときの水分は格別だ。そういった、当たり前のことがいつになっても変わらないことは誰もが知っている筈なのに、人間は大事なことをなぜか忘れてしまう。今この瞬間に自分が生きていることを、ただ当たり前だと思わずに、過去のいろんな出来事の上に自分が生きていると認識して、自分のこれからするべき事を考えれば、間違いなど起こるはずがない。この小説の中の人間達も、私達現代人も、今日を生きるために生きていることには変わりない。
 戦争が終わっても、平和の訪れなかった人々。たとえ原爆投下のおかげで戦争が早期終結したのだとしても、この原爆投下が悲劇であることに変わらない。五十年余りが経ち、忘れられそうになっているこの出来事は、今になってたくさんのことを教えてくれた。私は、ただもう二度と黒い雨が降ることのないように、このことを忘れずにいたいと思う。


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『肝臓先生』(坂口安吾 )を読んで【高校生用】

 『肝臓先生」――この題名を初めて見たとき、私はこの物語が肝臓先生という後世に言い伝えられる程立派で学ぶところの多い先生が主人公の物語だろうと思った。しかし、読み終えた後、一体誰が主人公であるのか、私にはよくわからなくなってしまった。「私」とあるのだから、烏賊虎さんを訪ね、肝臓先生についての話を聞いた「私」こそ主人公だと考える人もいるだろうし、私もそれを否定する気はない。しかし私はあえて、まだ主人公はいるのだと言い張りたい。まず「肝臓先生」。題名にもなっている程だから容易に察しがつくだろう。しかし、それにも増して、私が「もう一人の主人公」として注目したいのは「漁師町の人々」なのである。どうしてだろう。この物語を読み終えた今、私の中には肝臓先生と同じぐらい強くはっきりと漁師町の人々の残像が残っているのだ。このことを考えるうえで私はまず「肝臓先生」と「漁師町の人々」のつながりを考えてみた。
 まず赤城先生、人呼んで「肝臓先生」は、ある時から診断する患者のほとんど全員が肝臓炎を患っていることに気付き、はじめは大変悩んだ。この肝臓炎を研究し、その真相をつきとめるべきか。このとき彼の中には、研究の成果によって一人でも多くの患者を救いたいということだけでなく、少なからずとも今まで町医者として毎日毎日変わらず町の人々を診てきた自分が輝かしい研究成果を公表する姿があったはずだ。しかし彼はやはり自分の進むべき道を見失わなかった。人はどうしても地位や名誉のある道を選びたくなる。けれども、いつも(自分がこの世ですべき役割は何なのか。)ということを心に留めて行動することを忘れてはならないのだ。そう彼が教えてくれた気がする。
 一方、漁師町の人々はというと、彼らは、なんの怒号も劇的な動作もなく、日々変化もなく平々凡々と生きている。皆が漁師だから、当然俗世の名声などには興味がない。唯一の例外が、漁業においての武勇伝がその一家、そして子孫にまで伝えられていくことぐらいなのである。
 そんな漁師町の人々がなぜ肝臓先生を崇拝するかというと、それは自分達を救ってくれたからではなく、彼の存在自体が町中、いや彼の生き様を知る全ての人に、あるものを与えてくれたからだと思う。彼が残してくれた「地位や名誉のあることだけが人のすべきことではない。一番大切なのは、自分の"この世の中での役割"を見つけ、見失うことなく果たすことなんだ」という素晴らしいメッセージが、名声などとは縁遠い、彼らの平凡な暮らしに意義を与えてくれたのだろう。
 この物語で、もう一つのキーポイントとなるのは「伊藤市」というまちではないだろうか。一見単なる舞台であるように思われるどこにでもありそうな市であるが、この市の存在自体が私に疑問を投げかけているよに思えて仕方がない。平和なあたたかい町である漁師町と俗世の評価を大事に大騒ぎをしている温泉町。この全く性格の異なる町同士が隣り合い、ひとつの市を形成し、そして調和している。これはなぜなのであろうか。
 私は決して、名声を大事とする生き方もきちんと認めるべきだと言っているのではないが、これも"役割"なのではないだろうか。毎日変わらず漁に出かけ、おいしい魚をたくさん獲り、陰で人々を支えている漁師町の人々。よそから来る温泉客をあたたかく迎え入れ、いつも賑やかに騒いでいる温泉町。このどちらが欠けても伊藤市は成り立たないのである。
 そう、この物語は、世の中の皆それぞれが『この世』という巨大なかたまりの中の一つのパーツなのだ。ということを私に教えてくれたのだ。それぞれ全部違った形をしていて、一つでもなくなるとうまくいかない。目立つ部分で働いているものもあれば、縁の下の力持ちとして皆を支えているパーツもあるのだ。
 私はどこのパーツなのだろう。何の役割を果たす為にこの世に生まれてきたのだろう。きっとその答えはなく、私たちが自分自身で見つけるものなのだろう。星の数ほどある選択肢から自分の一番好きな道を選ぶ。それこそ、この地球上でたった一つしかない自分にぴったりのパーツなのだろう。私には、ささやかだけれども、どうしても叶えたい夢がある。"夢"というと自分本位に聞こえるけれども、それが私の好きなことであると同時に、私にしかできない大切な役割だとしたら、なんて素晴らしいことだろう。
 「将来どんな仕事をしたい?」と聞かれると「人の役に立つ仕事がしたい。」と答える人は多い。しかし、自分の好きな仕事こそ、自分にとって最高の仕事であるだけでなく、最も人の役に立つ、その人にしかできない仕事に違いないのだ。



『鉄道員』(浅田次郎)を読んで【高校生用】

 彼は、きっと無器用なのだ。鉄道員、つまりポッポヤである乙松は、無器用にしか生きられなかった。死んだ子供を旗を振って迎え、妻の危篤にかけつけることもできなかった。私は、そんな彼に絶句しながらも、なぜか自分がみじめに思えた。彼に比べたら、自分は生きた抜けがらのようだ。
 鉄道員として生きる、とはどういうことか。「―として生きる」ということを捨てられない生き方とはどういうものなのだろう。私はその思いをあえて「信念」と呼びたい。
 「自分の『信念』は何か」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。また、答えた人の中に、それを貫き通せる人はいるだろうか。少なくとも私は、この質問に答えることができない。
 「ポッポヤやめたらもう泣いていいだろうか。」胸をうち抜かれたような衝撃が、体中に走った。人間という生き物は、自分の気持ちを押し殺してまで、「信念」を貫き通すことができるのだろうか。私は、そうは思えない。そうできないからこそ、人間なのではないだろうか。それとも、私が「信念」を持っていないために言える戯れ言なのだろうか。そのどちらにしても、乙松は苦しんでいた。涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに喚呼の声を絞らなければならないことに。
 そんな彼に、救いの手がさしのばされた。それは、彼の死んだ娘の雪子の登場であった。雪子が現れたことで、乙松は押さえていた感情をさらけだした。彼は苦しみから解放されたのだ。一方の雪子も彼を恨むのでなく、彼の「信念」を、生き様を理解していた。それどころか、自分が早くに死んだために父親が苦しんだことを詫びた。私は、そこに家族の愛を見つけた。家族の愛と一言でいっても、薄っぺらいものではなく、本当の家族愛だ。では、本当の家族愛とは何かと尋ねられると、容易に答えることができない。しかし、私は家族愛は家庭によって様々な形があると思う。
 ここでの家族愛は、乙松が自分の「信念」を貫き通したこと、また、妻や雪子が彼の「信念」を理解していたことだ。もし乙松が、雪子を失った悲しみからポッポヤをやめていたら…それは自分を甘やかすことで、決して雪子を想い詫びることにはならなかっただろう。だからこそ、乙松は、精一杯自分を貫いて生き、その中でも家族に対する感謝の気持ちを忘れなかったのだ。また、妻もその気持ちを理解していたから、黙っていたのだろう。私はこの家族愛を前に、どこか空虚な現代社会の家族関係に疑問を持たずにはいられなかった。
 何も、現代社会の家族に愛がないと言うのではない。私たちが、家族愛だと信じているものは、本当にお互いのことを想ってのものだろうか。必ずしもそうではないと思う。現に、よく親が子供に「あなたのため」というのを耳にするが、それが本当に子供のための発言であることは少ない。だいたい、その言葉を口にすることからして何か間違っていると思う。ただ、子供を自分の言動の理由にしているにすぎないのではないだろうか。このようなところから、現代社会に小さな歪みが生じてきているのだと私は考えている。
 私が、乙松をうらやましく感じるのは、彼が「信念」を死ぬまで貫いたからだけではない。彼の周りに愛があったからだ。彼の人生は、端から見たら仕事一筋で何も楽しみのない人生、いいことや嬉しいことよりも辛く悲しいことの方が多い人生だった。だが、そこに「愛」と「信念」がある限り、その二つを見失いかけている私たちには、彼の人生がうらやましく感じられるのだと思う。けれど、私は今まで自分の人生を不幸だと思ったことはない。また、反対に心から幸せだと感じたこともない。それはきっと、私がそこまで真剣に生きていないからだと思う。だからこそ、乙松が「信念」を持って苦しみながら生きているのを見て、自分を抜けがらのように感じたのだ。
 しかし、私には乙松のような生き方をする自信がない。時代が変わってゆくなか、人が変わらないということは不可能にも思えるからだ。あるいはこうも言えるかもしれない。時代の変化がもたらす諸問題に対応しなければならない私たちは、乙松の生き方にひかれはするが、彼のように生きるわけにはいかないと。私には「ーとして」生きるものはない。しかし、決して時代に流されるのではなく、私は自分の信じることを胸に精一杯生きていこうと思う。そして、そうすればきっと自分を理解してくれる人が現れるだろう。家族、あるいは家族をも越えた強い絆が生まれてくるはずである。

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『風立ちぬ』(堀辰雄)を読んで【高校生用】

 「生」という、はかない猟燭の灯火は、常に「死」という暗闇が無ければ、その灯火の美しさを確認する事は難しく、また、その尊さを知る事もできない。常に生と死は表裏一体でなければならない。しかし、普段の生活で「死」を意識する時間が果たしてどれほどあるだろうか。
 武士の行動規範の書である『葉隠』では、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という一句が示すように、常に「死」と隣り合わせで物事を考え、行動せよという思想が、全ての教えの骨子となっている。『葉隠』は武士の為の書であるから、現代人に照らし合わせるのは難しいかもしれない。しかし、例えば、「自分の命は今日限りかもしれない」と思って、学校へ行ったり、仕事をすると、その時間はきっと濃密になるだろう。これがまさに、武士の持つべき、理想的緊張感である。また、「もう、この人は死ぬんだ」と思って、恋人と出会うと、どうしようもなくいとおしくなって、優しくなれるだろうし、辛いだろうが充実した時を過ごせるだろう。私は前者の心構えを『葉隠』で知り、後者を『風立ちぬ』で知った。
 『風立ちぬ』の作中では、常に「節子の死」がバックグラウンドとして用意されている。婚約者である「私」も、節子自身も、その父も、節子の短い命を知っているのである。しかし、もはや残り少ない命を受け入れて、節子は「私」と愛を語らう。静謐とした、自然に囲まれたサナトリウムで、「死」の黒い影に怯えながらも、懸命に生きようとする節子の、あまりに健気な姿。そして、それを見守る「私」の深い愛。二人の切なくなるほど誠実な生き方に、私は深く心を打たれた。そこには、現代人が失いつつある、「懸命な愛と生」が具現化されていたからだ。
 しかしながら、「懸命な愛と生」は死に近い者を気丈にさせるが、残される者にとっては、つらく悲しいものである。例えば、「私」が、ある筈の無い未来について考えてしまうが、自らの死を覚悟した節子の言葉を聞いて、産しさを覚える場面などは、その苦しみを真正面から描いている。「懸命な愛と生」は、生きる者に痛みや苦しみを、容赦なく与えてくる。
 確かに、景に人を愛するには、多大なリスクが伴う。命に愛すれば愛するほど、失った時の悲しみは大きい。「私」もまた、懸命に節子を愛した結果、彼女を失うと、一時は空になってしまう。しかし、劇的なリルケの詩句に救われ、「私」は「生」に向かって歩き始める。このリルケの詩句「レクイエム」は「死」を歌いながら、逆説的に「生」の輝きを増させるという手法を取っている。そのような意味で、この詩句は『風立ちぬ』を象徴していると言える。鎮魂歌は必ずしも死者に手向けられているわけではない。むしろ、残された者に手向けられているとさえ言える。堀辰雄が訴えかけているのは、決して死の残酷さや苦しさではなく、生きている者の強さと美しさだったのだ。
 そして物語は収束する。「私」は、僅かだと思っていた小屋の明りの意外なまでの拡散を見て、自らの「生」の尊さを知る。こうして、「死」を背景にして、最後に「生」の尊さを証明するという、逆説的な物語は完結する。幻想的に、美しく、そして強く……。
 『風立ちぬ』を読了した後、私は虚空を見つめ、生きる事と愛する事について思案した。モノが溢れかえり、食料は豊富にある。かつてないほどに生きることが容易になり、「死」は忘却の彼方へと追いやられた。しかも、現代はそれを赦し、認めてしまっている。このように「死」が忘れ去られた中で、果たして『風立ちぬ』で具現化されているような「懸命な愛と生」が実践されうるのか。否、されないだろう。
 「死」という喪失から遠ざかってしまった人間に、「愛」や「生」という、喪失が前提とされているものの、根源的な価値を認める事など出来ない。その証拠に、現代の風潮では「愛」はメディアのエンターテイメントと化しており、一方「生」は、それを軽々しく扱う人間によって引き起こされる、残虐な殺人事件によって蹂躙されている。現世的な利益を求める事が至上とされる思想が跋扈し、「懸命な愛と生」の持つ、深く広い意義は軽視された。しかし、昨秋に起きた同時多発テロのような悲劇に見舞われて、初めてその意義は思い出されるだろう。
 今、ただ生きている事だけに満足してしまっている人間が求めなければならないのは、「死」を畏怖する心であり、それを見据えた「懸命な愛と生」であり、その価値を教えてくれる『風立ちぬ』という、純粋で誠実な書物の存在ではないだろうか。

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『破戒』(島崎藤村)を読んで【高校生用】

 人として生き、人として死んでいく。当然のことだと誰もが思っているだろう。しかし実際は、本当に人と平等に接している人は少ないように思う。そしてそのことに気付かない人や無意識のうちに平等でないことを当然としている人がほとんどだろう。では、本当の平等とはどこにあるのだろうか。
 「決して打ち明けるな。隠せ。」これは呪縛だ。丑松が自分の祖先から、そして自分自身から解き放たれることは決してできないという。そして丑松が自分の本来の姿を出さぬよう生きていかなくてはならないという。なぜ自分を捨てて生きていかなくてはならないのか。ただ被差別部落民の名のもとで差別を受けなくてはならないのか。残酷な人間同士の傷つけあいには、心の中の恐怖が大きく影響しているように思う。
 人間は常に心の中に恐怖を持っていると思う。人から仲間外れにされたくない。人から遅れたくない。人に軽蔑されたくない。この心の弱さが自分を守るという行為に走らせる。そして自分の位置を確立するために自分より下の人をつくろうとする。ただ自分を守ることで必死なのだ。
 何を犠牲にしても自分さえ良ければ、という気持ちは、私にも確かにある。自分が傷つきたくないから、自分を守りたいから、人を傷つけてしまったこともある。でも、そんな事をしても本当に悪いと思えないのも事実だ。自分の立場が良くなればそれで安心してしまい罪悪感を覚えることもないのだ。そういう自分を恥ずかしいと思う。情けないと思う。でも本当に悲しいのは自分が悪いと気付かないことだ。いや、認めたくないと気付かないふりをしているだけかもしれない。普通に教育を受けてきた私にとって、善悪を区別することは簡単なことなのだから。しかし自分を大切だと思うことが全ての悪を、罪を、隠そうと認めまいとするのだ。どんなに口できれい事を言ったところで、心の奥底にはずるい気持ちがうずまいているのだ。
 では、自分より大切なものに出会えた人はどうだろう。お志歩はなぜ丑松が被差別部落民と知ってなお結婚したいと思ったのか。答えは簡単だ。ただ丑松と一緒に生きていきたい、そう思ったからだ。他人が勝手につけた値打ちによって苦しみ、ふりまわされることもあるかもしれない。それでも共にその苦しみを乗り越え、真の姿を認めてあげたいと思った時、人は自分の中の弱さに打ち勝つ勇気を手に入れるのではないだろうか。しかしそれを手に入れることが難しいからこそ、差別が今も消えてはいないのだ。
 人には背負っていかなくてはならないものが必ずある。周りが決めた物さしで勝手に差のあるスタート地点に立たされる。ずっと後ろに立たされた丑松、猪子、高柳。彼らのレースは、同じ被差別部落民という同じ障害をもちながら全て違っていた。丑松は自分が差別されることへの疑問も常に持ち続けていた。しかし高柳はただ自分が被差別部落民であるという恐怖だけをもっていた。大きな違いである。だからその障害につまづいた時、つまり自分が被差別部落民だとみんなに知られた時、高柳は自分で二度と起き上がろうとはしなかっただろう。しかし丑松は違う。「我はえたなり。」丑松は自分から告白した。これで自分は永久に誰にも受け入れられなくなるかもしれないという覚悟で。そして再び起き上がったのだ。
 懸命に生きていく丑松の姿は生徒の目に純粋にまぶしく映ったにちがいない。生徒達は告白の後も丑松を慕い続けた。教師として理想の在り方だと思う。教師として以前に人間としての丑松への生徒の尊敬。丑松と生徒との信頼関係にうらやましさを覚える。
 私にも教師になりたいという夢がある。丑松のように生徒に希望や力を与えられたら、と思う。しかし本当に丑松のような強さを持てるだろうかと不安になる。自分を飾り自分を守って生きていくことを否定しきれない自分もいるのに。しかし全てを取り除いた後の私には何が残るのだろう、そう問いかけた時はっきりと答えられない自分に愕然とした。自分の人生に自信を持てていない人に他の人へ希望べ力を与えることなんてできはしない。私は自分のレースをただ前だけを見つめて走れてなどいないのだ。周りの人の目を気にしてぎこちなく走っているにすぎないのだ。何も飾らず、自分のレースを自分らしく走りたい。そう思う。
 本当の平等とは何なのか分かってきたような気がする。自分らしく自分のレースを一生懸命走る、その一生懸命さこそが皆同じなのだ。それぞれの人の努力には誰も軽腰も差別もできるはずがない。自分の人生を、愛しながら進んでいこう。自分らしく生き始めた時、きっと他の人のその人らしさを認めることができるはずだから。そして自分の弱さに打ち勝つ強い愛を持って生きていきたい。

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『芋粥』(芥川龍之介)を読んで【高校生用】

 「理想」や「欲望」といったものは、それを追求する過程においてのみ、価値を生じるものなのだろうか。私たち人間は、それぞれに無限ともいえる「理想」「欲望」を抱えて生きている。それらは、すぐにでも手の届くような小さな「欲望」から、強い意志と果てしない努力を要する究極の目標とも言える「理想」まで様々だ。私たちは、その実現に努力するが、一旦かなえられてしまうと、しばしば幻滅をもたらしているようにも思える。
 五位の容貌は「非凡」なまでにだらしなく、そのみなりも「委々しい」ものであった。周囲の者はそんな彼を軽蔑し、彼の言動を何かにつけて嘲笑、罵倒した。しかし、彼はどんなに揶揄されても腹を立てたり涙を見せたりしない。顔色一つ変えずただ黙然といつもの役目を繰り返す。意気地がなく、自負心というものを持ち合わせていない彼は誰にどんな悪戯をされようが、意地悪を言われようがお構いなしなのだ。
 そんな人間だから、人生に何の希望も持っていないかというとそうでもない。どんな人間でも、生きるためには多少の希望が必要であろう。これが明日を生きる活力を生み出す。
 五位の唯一の至福の時は、芋粥をすする時である。しかもその機会は年に一度あるかないかで、すすると言ってもわずかに喉を潤す程度のものだ。しかしこの瞬間に彼は人生の喜びを感じる。「芋粥に飽かむ」これが彼の一生を貫いている希望つまり「欲望」だ。彼は、この小さな「欲望」を糧として何十年も生きていると言っても過言ではない。
 しかし、彼の「欲望」は、思いの外容易に実現することとなる。利仁が彼の本拠地である敦賀に連れて行き、芋粥を馳走してくれるというのだ。利仁の館に到着したその夜のこと。何となく釣り合いのとれない不安が五位を襲った。明日には芋粥が腹いっぱい食べられる、時間の経つのが待ち遠しい、という気持ち。と同時にその時をそんなに早く迎えてはならないような気もする。この二つの感情が五位の中を交錯していた。五位にとって翌 朝待っているものはこの上ない幸福のはずだが、利仁の従者たちが芋粥の準備に奔走するのを寝耳に聞きながら彼はこんなことを考えていた。周囲から寄ってたかって揶揄されていた都での暮らしがなつかしい。芋粥の存在がまだ遠かったあのころに戻りたい――。
 案の定、彼は翌朝の膳にのほった芋粥を食べる気になどなれず、ただ見るだけで満腹を感じてしまう。五位の唯一の希望「欲望」は、「芋粥に飽かむ」ただそれだけであった。つまり所詮は「理想」になり得るようなものではなかったのだ。
 しかし、考えてみると、私たちはどれほど自分の夢「理想」を明確に認識しているといえるのだろう。 現代という時代では、自分の一生を物語として描くことが難しい。一生を貫く夢を持っている人はまれだと思う。このために自分は生きている。というものが欲しい。が、大きな夢でもつかみどころがなければ、それを目標に何十年も生きていくのは困難だ。ささやかでも、手をのばせばすぐにでも手に入るような「欲望」が、私たちを明日へ導いているというのが現実なのではなかろうか。ある面、私たちは五位と変わりないのではないか。
 ところで、私自身の「欲望」の内実はどういったものだろう。食欲、財欲、情欲と様々ではあるが、やはり私が一番求めているのは他人に認められることだと思う。そのために日々思い悩み、努力し、その悪戦苦闘のなかで見出した小さな悦びを明日への活力にしているのだ。他人に認められたいと思うことは、他人との関係の中でこうありたいという自分像を抱いているということだ。私は常に他人との相互関係の中で、よりよき自分の在り方をさぐっていたのだ。いや、これは私に限ったことではなかろう。私たち人間は、他者の存在によって人間たりうるのだ。日々を無為にこなすだけでは、生きる価値も持たない。五位には他者が存在していない。だから五位の「欲望」は達せられぬうちが花だったのだ。他者との関係から生じる「欲望」は、達せられると同時に次の次元へと進む。ある面、貪欲の塊である私たち人間には、この心理のからくりを止めることは決してできまい。しかしながら、この貪欲さが私たちを動かしている要因の一つであることもまた、紛れも無い事実である。「欲望」とは、私たちの現実を理想へと近づけるためのアイテムになりうる。そう考えると、「欲望」の中身そのものが、私たちの人格そのものを表していると言えるのではなかろうか。何を望むかによって、その人間性が見えるだろう。私は、自分の「欲望」を「理想」に一つなげるものとしたい。そして、それが社会にとっての「理想」と重なるよう、他者との関係を見つめながら自分自身の生き方を見定めていきたい。

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2019/08/26

『ノルウェイの森』(村上春樹)を読んで【高校生用】

 ワタナベ君はなぜ最後まで死ななかったのだろうか。彼のまわりの人たちが次々に自ら命を絶っていく中で、どうして彼は生き続けることを選んだのだろうか。
 簡単に考えるなら、それは彼自身がいうように「本質的に楽天的な人間」であったからだ。しかし本当はそれだけではないと僕は思う。直子さんのいる療養所を訪ねに行ったとき、彼は初対面のレイコさんから、心を「開こうと思えば開ける人」と言われている。開くとどうなるんですか、と尋ねる彼に彼女は「回復するのよ」と答えている。キズキ君の死んだ夜から、何もかもが死を中心にして回転していたという彼が、最終的に生き続ける方を選んだというのを「回復」とするなら、「心を開く」ことは、ほうっておくと過去や死の世界へずるずると引き込まれていく自分を抑え、現実の世界と関わり未来志向で生きること、その勇気を持つことと言い換えられるのではないか。
 では何故彼は「心を開く」気になったのか。彼が死に近かった理由は「孤独」だと僕は思う。高校時代、彼には友達がほとんどおらず、また作ろうともしなかったようだ。そんなことしてもがっかりするだけだからと彼は言っているが、僕にはその気持が何となくわかる。あの人なら自分を理解してくれるのではと思った人のところへ行って話をしてみてもやっぱり違う、とか友達づきあいをしているうちに、当初は理想の友人と思われた人から、自分には理解できない、我慢ならない言動が飛び出してきた、とかそういうことを何回か重ねていくうちに友達づくりへの期待がしぼんでしまったのだろう。実は、これは僕自身の体験なのだが、ワタナベ君もきっとそうだったのだ。自分の個性や価値観といったものが、世の中で多数派のものと異なっているのだろう。
 それでも、僕には話を聞いてくれる人がまわりに沢山いる。だから何ともない。ワタナベ君にはひとりしかいなかった。「唯一の友人」 キズキ君である。でも彼は自殺してしまった。理解しあえる人が一人もいない世界。僕には想像がつかないが、たぶんそれは絶海の孤島に一人取りされるよりもずっと孤独なものだろう。なぜなら、まわりじゅうを「わかりあえない人達」に囲まれているからだ。
 そんなひどい孤独の中から彼を救い、「心を開く」気にさせたのは「緑さん」の存在だったと僕は思う。二人は大学が同じで知り合ったのだが、とにかくこの二人のやりとりは読んでいて本当におかしかった。引用していたらきりがない。まるで緑さんがボケ役、ワタナベ君がツッコミ役のコントみたいだった。
 緑さんは可愛らしくてスタイルも良い、名門女子高出の人である。おっとりとしたお嬢様を想像するが、本人が「どうしてもシックになれないの」という通り、あまり上品ではない。考えることが少し普通と違う。そのうえ想像力がものすごいので、いつもとんでもないことをワタナベ君に尋ねる。たぶんそんなときの彼女の目はらんらんと輝いているのだろう。ワタナベ君はたいてい、半分呆れたようにちょっと返事をするだけなのだが、心の中では、からっとしていて、前向きで、表情が豊かで、自分に正直な彼女に好感を持っていたに違いない。実際、緑さんが前の彼氏と別かれてワタナベ君にプロポーズしたときには、ワタナベ君も緑さんのことを、直子さんと同じくらい好きになっていたのだ。
 後に、彼はそれがもとで苦しんだが、この苦しみは、彼の「生き方の変化」にともなう苦しみだと僕は思う。緑さんと出会い、その健康的な生き方に憧れる。自分の新しい生き方はこれだと思う。彼女を好きになる。でも鋭く繊細で、完全な美しさを持つ直子さんも、やはり好きだ。今にもこわれてしまいそうな彼女を守りながら、ずっと一緒に生きていたい。彼は二つの違った生き方のはざまで、二人の違った生き方をした女性に恋していたのだ。そして、結果的には直子さんは自殺し、ワタナベ君は「世界中に君以外に求めるものは何もない」と緑さんにはっきりと言った。彼は過去は過去として、緑さんと幸せになると心に決めたのである。退廃的な美しさに満ちた十代の少年をやめて現実を見つめ、頭のねじを巻きなおし、自分に正直に生きることにしたのである。ワタナベ君自身が「生きつづけるための代償」と呼ぶこれらのことこそ、「心を開く」ことだと言えるだろう。
 僕や僕のまわりの世界とは少し違うところの話だったので、共感することよりも推察することの方が多かった、というのが今の正直な感想だ。けれども、価値観の多様化が進んでいるといわれる現代の社会のなか、ワタナベ君のような孤独を感じる人はこれからもどんどん増えていくのではないだろうか。とすればこの作品は今後もずっと読み継がれていくだろう。そしていつか孤独が辛くなったとき、僕もきっとこの作品を読み返すだろう。

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『それから』(夏目漱石)を読んで【高校生用】

 「無為自然」という言葉は、果たして現実世界で成立し得るだろうか。赤ちゃんに限ってのみ成り立つと言っていいだろう。いつの間にか高校生になり、すっかり愛想笑いが上手くなった私は、衝突を避け流れに身を任せることで精神の省エネと合理化を図り始めた。大学に合格するために勉強する。そんな方針は馬鹿げていると思いながらも、敷かれたレールから逸れまいと必死な自分に、どこか矛盾と空しさを感じることもある。
 そこへ、生活のための労働は誠実ではないという代助の言葉。冬の朝に顔を洗う冷水のように、それは私の脳に刺激的であった。生活のために働くということは、生活の糧を得ることが趣旨であって、労働そのものの内容や方向は全て糧を効率良く得るために統制される。すなわちそれは神聖とは言えないと代助は言った。私は大いにその説に賛同した。誰かに今の自分を戒めてほしかったのだ。勉強するのは好きだが、その内容は大学進学という結果を越えたものでなければいけない。私はまったく味方を得た気分である。別の目的のために何かをするということは、その行動に対して失礼なのである。その時間に対して無責任なのである。ひいては、今を生きる自分自身に対して無関心の状態である。私たちは限りある生命で「今」を食いつぶし続けて生きている。私たちが感じ得るのは今この瞬間の喜び、驚き、絶望だけである。勉強するために勉強し、生きるために生きるのでなければ、今現在進行している私の命を無駄にしてしまう。それが「無為自然」実現のための一要素ではないのか。
 私はこんなことを考えて、表面的な自分の生活を蔑むことで楽しんだ。代助もきっと同じだったのだ。己の理想を正統化・神聖化することで、自分はなんて深みのある人間なんだと酔いしれる。そんなことをするのは自己実現の努力をしない恵まれた甘えん坊だけだと、私は後から気付くのだが。
 しかし代助は変わり始める。代助には大切な人がいた。その人を不幸な境遇から救いたいと願った。しかしその女性は親友の妻である。代助は言葉にならない苦悩の渦へ陥る。金を工面してもらえないかと言われても、代助は無職の遊び人。女性の前では俺に任せろと言うことができても、その資金の調達先は父や兄である。代助の心の中に湧き上がる、自身の生活力の無さに対するいらだち。その点については私も無能力と言える現状なので、代助の焦りが生々しく迫って来た。今まで通り親から金をもらうには、親の言う通りにしなければならない。政略結婚に身を任せるか、親友の妻を奪って家族と絶縁するか。人生はいつも私たちに恐ろしい選択を強要する。どちらをとっても必ず苦しみが待っているという残酷さ。何も欲しがらなければ苦しまなくて済むのに。ただ流れるままに生きていれば、後悔などしなくていいのに。
 でも代助は本当に親友の妻である三千代を愛していた。いつもの代助ならまあいいか、で終わらせるところを、三千代のことだけは諦められなかった。代助は初めて、心の底から欲しいものに出会ったのだ。三千代への愛は、普段の代助の精神を奪い、代助を逆境へと駆りたてた。複雑にからまりほどけそうもないような想いを、ただ一直線に女に差し出す代助。その姿は、今までの理屈をこねるだけの代助とはかけ離れ、輝いていた。こんなにも純粋な行動が他にあるだろうか。と思うと同時に、私はこれまでの自分の思い違いに気付く。人は、何か物質的な、または精神的なものを切に欲しがった時初めて、本来の底力を発揮できるものなのだ、と。働くために働き、生きるために生きる。それはとても美しいし、やはり私の目指すところではある。しかしあまりにも綺麗すぎて、どうしても手に入れたいという醜く切なる願望のもたらすパワーを失ってしまう。代助は三千代を勝ち得た代償として、家族からの資金援助を絶たれ、交流も絶たれた。今までの生活を全て捨て去る覚悟を持ってこそ、未来を手に入れるチャンスが与えられるのだ。私には、そこまでして欲しいものがない。だから何をしても無機質で、面白味がない。敷かれたレールで運ばれて行くか、自ら道をかき分けて進んで行くかは、私さえその気であれば、選ぶことができたのだ。いや、これからだってできるのだ、目標があれば。
 代助はこれから波乱の人生を歩んで行くこととなる。職を求め、社会の逆風に立ち向かって前進するうえで、彼の道徳に反する行為を迫られることもあるかもしれない。それでも彼はきっと選択し、やり遂げるだろう。自分の欲しいもの、守りたいもののために。それでいいのだと思える私がいる。「無為自然」でいるよりも、私は何かを成したい。代助にとっての三千代であり、私がまだ見つけていないもの、今の自分を全身全霊注ぎ込めるような目標を見つけ、追い求めていきたい。
 
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『博士の愛した数式』(小川洋子)を読んで【高校生用】

 「ルート」ってなんて優しい記号なんだろう。
 「どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号」
これは博士の言葉だ。目に見えない、書き表すことのできない数字を、ルートの中にいれてやると、誇らしげに、立派な一つの数字となって私達の前に姿を現す。決してどんな数字でも、ルートは中に入ってきたものの全てを難なく受け入れてくれる。その数字がしっかりと足で立てるように、柔らかい優しさをかぶせてくれる。きっと「私」にとって、博士の存在もルートだったのだろう。
 主人公である「私」は高校三年生の時に妊娠し、一人で子供も産み、家政婦の仕事をして育ててきた。「私」の母は娘の妊娠に激怒した。母も同じ経験をしたから、父のいない子を産み育てる苦しさを知っていたからこそのことだと思う。そんな過去を持つ「私」や息子には博士の存在はとても温かいものだっただろう。決して博士が直接、優しい言葉や行動を「私」に投げかけることはないが、他人の目を気にする母のもとで育った「私」にとって、博士といる時間は、とても心地良い、心休まるものだったのではないかと思う。博士にとって大切なのは目に見えていることだけではなくて、内面にある深いものを読みとっていくことなのだろう。一方、「私」の息子はとても素晴らしい少年だ。博士には「ルート」というニックネームをつけてもらった。きっと彼は生まれて初めて平らな頭であることを嬉しく思っただろう。ルートは父はいないし母は仕事なので、家では一人のことが多いはずだ。もし私がルートだったら、寂しくていじけてしまうに違いない。だが彼は、自分と同じくらい寂しい思いをしている母に気づき、思いやることができた。彼は本当の「思いやり」を知っていた。博士の子供に対する愛情は果てのないもので、ルートはいつも博士の大きな腕にすっぽり包まれていた。そしてルートもそんな博士に対して、いつも精一杯の思いを込めた行動でかえしていた。
 博士の記憶は八十分しかもたない。私はそれがとてもしかった。三人の仲は決して八十分以上深くはならない。どんなに貴い時間を一緒に過ごしても次の日に博士がそのことを覚えていることはない。事故に遭った日から博士の思い出が積み重なってゆくことはないのだ。悲しいのだけれど、この本からそっと流れてくる空気は激しい悲しみではなく、少し切なく、そして美しい静けさを漂わせていた。何故なのだろう……。もしかしたら博士の病気は世界を表しているのかもしれない。博士は毎日、新しく生まれて来ているのかもしれない。誰かが死に、誰かが生まれるように。誰かが残していった想いを、誰かが受け継ぎ、またそれを繰り返していくように、博士も日々生まれては、過去の自分から数式を受け取り、未来へそれをつなげていっているのかもしれない。数式はいつまでもかわらずにそこにあるからだ。
 私はこの本で数学の美しさを知った。数学がこんなに綺麗なものだったなんて知りもしなかったし、そんな風に考えること自体思いもよらなかった。私はこれまで、自分が数学が苦手教科な事もあって、数学なんか何であるんだろう、日常生活で役に立つ事なんかほとんど無いじゃないか、と思っていた。でも「数学の存在の意味を考える」という事が間違いなんだと思った。数学は私達がその存在を知る前から私達の側に存在していて、純粋に美しい一つの世界なのだと気付いた。数学を学ぶ事は、宇宙に秘められた謎を解明していく、目に見える姿にしていく事なんだと思った。友愛数や完全数といった数字達は、二つの数字の間に隠された関係や、一つの数字が背負っているものの重さに気付いた途端、ただの数字ではなくなる。両手でそっと包み込みたくなるような、はっと見上げてしまうような、こんな素敵な数字の存在を知らないまま生涯を終える事がなくて良かったと思う。一見ただの数字であったり、頭を悩ます嫌なものだったりする数字。でも実は健気で美しくて裏切りのないもの。色々なものがうごめいて、底知れない暗さや濁りをもった、この世界の中に存在している、真っさらなものの一つなんだと気付いた。私はこの本のおかげで前より数学を好きになりそうだ。
 博士のように繰り返し繰り返し始まる人生、世界。博士のような、素直に美しい物を追い求め、教え伝えていこうとする気持ちを持ちたい。博士やルートはどんな状況におかれても、自分にとってプラスになるような考え方ができる。それは彼らがこの世に存在している、幸せになるための手がかりを見つける努力を怠らなかったからだろう。だから私も身近なものに美や感動を見出せるような見方ができるようになりたい。きっと私の心を動かすものは、ずっと前から側にあって、光の角度によって輝きを現すだろうから。


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『ビルマの竪琴』(竹山道雄)を読んで【高校生用】

 「私は日本には帰りません。この国のいたる所に散らばっている日本人の白骨を始末します。亡き霊に休安の場所を与えます。」僧となった水島上等兵の手紙には淡々と、しかし力強くこう書かれていた。
 戦後七十年…。 今年に入ってこの言葉を何度耳にし、目にしただろう。幾度も繰り返される戦後七十年の言葉に、戦争について無関心になるまいと耳を傾けていた。ただ過去の悲惨な出来事としてのみとらえることは決してすまい。そう思っていた。でもそんな思いの中には予盾があふれていた。生々しい戦争体験を聞き、体をこわばらせてみても、戦争で亡くなった人々に同情してみても、所詮、他人事でしかないのである。他人事だからその場しのぎの同情ができるのだ。他人事だから悲惨すぎる事実から目を逸らすのだ。そして、戦争中の苦労を理解したような顔をして、欲しいものが欲しいだけ手に入る現代で、わがままにそして自分勝手に生きることができるのだ。戦争を理解しようとしている自分の中に、矛盾にあふれた冷たいもう一人の自分がいることを、この物語が教えてくれた。
 「私は日本には帰りません。」彼の言葉は、私の想像を絶した。戦争のことを理解しようと思い、この本を手にした私は、水島上等兵には、ほかにやるべき事があると当然のように考えていた。それは、他の隊員たちと共に日本へ帰り、廃墟となった日本をたて直すことだった。それは確かに想像もできないほど辛いことだろう。自分の愛した祖国はみじめな姿に変貌している。しかし、そこから逃げてはいけない。今まで国の為に戦った者であるからこそ、人々が悪しざまに罵りそしっている日本を見捨ててはいけないのだ。そうすることが、異国の地で亡くなった同胞たちの死を無駄にしないということだ。確信を持ってそう考えていた私の心の中を、水島上等兵の言葉が何度も何度も駆け巡ったのだ。
 そして、戦争を理解しようとしていた自分の中に、本当は一番大切なことを無視している自分がいることに気付いた。それは、とても冷たい自分だった。冷たい自分が心のどこかで戦争を過去の悲劇ととらえていた。つまり、空襲の中を逃げまどう人々も、食べる物もなく飢えている人々も、そして異国の地で命を落とした人々も、自分と同じ人間であることに気付いていなかったのだ。戦争を経験した人々は、何か特別な人々で、ひどく不運であった人々として考えていたのだ。そんな事を考えながら私は、水島上等兵の生き方を否定し、彼に人間の当然の感情である、死を悲しむことを越えた強さを求めていた。現代の自分においても、誰かの死の悲しみに耐え、それを乗り越えることは難しいことなのに。
 再び私の心の中を、水島上等兵の言葉がよぎった。彼の中には、異国の地で僧として生きることに迷いはなかったのだろうか。愛する祖国を捨てることに、そして日本で始まるはずであった新しい生活を捨てることに迷いはなかったのだろうか。私はまだ彼の選んだ道に疑問を抱いていた。しかし私は、水島上等兵がビルマに残ることを決めたのは、彼が逃げることをしなかったのだということに気が付いた。つまり、戦争を経験した人々は、戦争によって人間の持っている様々な感情を踏みつけられた。敵を僧く思い、殺し合わなければならなかった。自分の中の人間らしい感情を傷付けられても、彼らは戦い続けねばならなかった。水島上等兵の周りでも多くの同胞が命を落とし、彼の人間らしさもまた、非常に傷付いただろう。しかし彼は逃げなかった。戦争に踏みつけられても人間らしい感情を失わず、仲間の一人一人の死を、今の私の一人の大切な人の死と同じように受けとめることができたのだ。ビルマに残り僧になることは、単に日本を捨てると言うことではなく、仲間の死から逃げなかったのだ、ということに気が付いた。水島上等兵がビルマで亡くなった兵士の骨を土に葬る姿の意味にやっと気付いたのだ。私の大切な人が一人亡くなる悲しみの大きさと、戦争で亡くなった多くの人の中の一人として亡くなる悲しみが同じことを。
 戦後七十年。この節目の年に私はこの本に出会えてよかったと思う。戦争を理解しようとする私の中にいる冷たい自分を発見できてよかったと思う。私はこの物語を通じて、戦争を知らない人間にとっての役目を見出すことができた。それは、戦争で苦しんだ人々を自分と等身大にとらえるということだ。もちろんそれは、必要な物が必要なだけ手に入る現代の私たちには容易なことではない。しかし、今こんなに平和に、そして裕福に生活している私達と、同じ人間としての感情を持っていた人々が、その感情を踏みつけられたという事実を決して忘れてはならない。そして、多くの人々の人間らしい感情を犠牲にした戦争を引き起こしたのも、私たち人間であることを忘れてはいけない。

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『伊豆の踊り子』(川端康成)を読んで【高校生用】

 作品というものは、その物語を読んだ全ての人の心の中に、生き続ける。
 最近、私は自分を見つめ直す機会が多くなったように思う。その分、自己嫌悪に陥る事も多い。いつも自分を一番大切にして、自己中心的に生きている自分がやけに目につくのだ。そして、知らず知らずのうちに他人を傷つけ、苦しませたり、人の欠点を見つけては自分を正当化しようとしている事に気付く。私がこの本に出会ったのは、ちょうどそんな時だった。
 自分の生いたちからくるゆがんだ心に対する反省の息苦しさに堪え切れずに旅に出た一高校生の「私」は、天城峠で出会った旅芸人一行と道連れになり、その中の若い踊り子にひかれてゆく。
 この作品の主題はどこにあるのだろうか。それは「私」の心情の変化にあると思う。旅の途中、「私」は踊り子にひかれてゆくと同時に、踊り子が身につけている古風な礼儀や、その中から発露する幼さ、純粋さに触れることによって、「私」のこのゆがみが純化されてゆくのだ。一人の人間の性質を根本から変えてしまう、これはすごいことだと思う。人は皆、誰でも小さな頃から培われた独自の感覚を持っている。それを初対面の者がくつがえすというのだ、この踊り子の清純さは並大抵ではないことが伺い知れる。
 私が、数多くある本の中からこの一冊を選ぶことができたのは、ただの偶然ではなかったように思う。多分、「私」と私には共通点がいくつかあったのだろう。その一つに心のゆがみも含まれている。この気持ちとは、自分や他人のマイナスな部分ばかりを見て、プラスな部分に目が向けられないということなのだと思う。確かに人間には自己嫌悪や反省は必要なものだとは思う。しかし、そればかりでは何の解決にもならない。大切なのは次へつなげるという意識なのである。これまでの「私」にはそれがなかった。だからこそ、反省の息苦しさに堪えられず、伊豆へ「逃げ」の旅に出たと言える。すなわち、ゆがんだ心を洗い流すということは、負の感情だけだった心に、正の感情を同居させるということだと思うのである。
 素朴な旅芸人たちとのやりとりや、踊り子薫の清純な安に救われた「私」は、彼らとの別れの後、東京に向かう船室ですがすがしい思いで涙する。
 このラストシーンは一杯の名場面であると思う。最後の一文には、「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろこぼれ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」と、ある。この一文には考えさせられるものがあると思う。「私」に涙を流させたものは一体何だったのだろうか。踊り子達に二度と会えないだろうという淋しさ、一つの恋が終わりを告げたことへの感傷、自分のこれからの人生への不安、きっとそのどれもがこの涙に込められているのだろうと思う。しかし、その中であえて私が強調したいのは安心感、そして解放感である。この気持ちが他のどんな気持ちより強かったとは言えないが、確かにこの時の「私」の中にはこの二つの気持ちが存在していたのではないかと思う。この気持ちを強調したい。なぜなら、この安心感と解放感こそが、私がこの作品を読んで感じたことだからだ。人は一人では生きていけない。私達は年を重ねる度に淋しさを増していくのだと思う。「自立する」という言葉とはうらはらに、だ。だからこそ、人は自分を強くしようとする。孤独を背負っていくために。しかし、人は必ずしも孤独ではない。支えてくれる、背を押してくれる、一緒に歩いてくれる「誰か」はきっと近くにいるし、見つからなくても焦る必要はない。心を開くことのできる存在の有ることを信じていれば必ず現れると思う。だからこそ、現実世界の、あらゆる事に対して自分に完璧を要求し、自分を追いつめる必要はないのだ。人には必ず何か足りない部分はあるのだから、ゆっくり、ゆっくり自分のペースで、他人を受け入れ、自分を受け入れる。そのうちに、
人は自分に欠けている「何か」を埋めてくれる人に出会い、ひかれ合う。その繰り返しで、人とは形成されてゆくものではないだろうか。この作品には、「私」と踊り子の関わりの裏に、そんなメッセージが隠されているような気がするのである。
 そして、この作品は生き続ける。私達、この物語を読んだ全ての人の心の中に、登場人物達も生き続けているのだ。現代社会に生きる私達と同じように今も、そしてこれからも。結末をただの終わりとして受けとめるのではなく、そこから新たに始まる「何か」に気付き、それを受けついでいくことが、私たちの日常生活のどんな場合にも求められている事ではないだろうかと思うのである。

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『吾輩は猫である』(夏目漱石)を読んで【高校生用】

 気付くと手が伸びている本、というのがある。それが、この『吾輩は猫である』だ。とにかく面白い。初めて読んだのは小学三年生の時、当時の感想は「つまらない。」今では、一番好きな本は『吾輩は猫である!』と答える私である。
 それにしてもこの「猫君」の泰然たること。いたって客観的かつ冷静である。そうしてみると、人間たちの何と滑稽なことか。苦沙弥先生の家を訪れる知識人の面々。話題はアルキメデスあり、新体詩あり、エピクタテスあり、さすが当世の知識人、なのだが。この人たちは、どこかおかしい。間が抜けている。くだらないことを話題にして、混ぜ返してみたり、真面目になってみたり。一体何者なんだ、この人たちは? と、思う。そして、私は急に大きな壁に突き当たる。
 「人間って、何者?」
 いきなり話が大きく飛ぶかも知れない。けれども、知識人からしてこうなのだ。つかめない。人間はどういう生き物であるのか。猫君の視線で行くと、人間とは我が儘で、変な冗談でボーイをからかい、首縊りの力学を演説し、枕元に山の芋を置いて寝るものである。これまたつかみ所のない人間像である。しかし、私はこれにいたく共感してしまった。すんなり受け入れられた。人間というのはこんなものだ、いつでも一歩離れた所から見ると、愚にもつかないことをしている。この知識人たちが、滑稽な人間の象徴なのだ。
 愚かな人間。
 しかし、どうもすっきりしない。何か違う。人間は、愚かという言葉だけでは言い切れない。まだ、何かあるように思うのだ。
 けれども私は猫君曰く、小さい坊やは「ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない」で、また元の堂々巡りに引き戻されてしまう。坊やは、やりたい放題の暴君である。やりたいことをやって満足している方が、なるほど、よっぽど悟っている。この知識人たちが、部屋の中であれこれ議論し、何が変わったか。どう変わったか。
 愚かな人間。
 考えてみると、この私も人間だ。私も愚かなことをしているだろうか。猫君に、そうだそうだ、と安易に共感していることが愚かかも知れない。人の意見に引きずられる、主体性のない人間だ。
 ただ、ここまで来ても人間を「愚」と言い切ってしまうのには不安が残る。先生が、寒月君が、迷亭が、腑甲斐無さの合間から、何かをのぞかせている。しかし、それが何かと言われるとよくわからない。私が人間をさっさと「愚」で片付けてしまわないのは、私も人間で、「愚」なんて嫌だという私の「愚」のせいかも知れない。これも猫君から見れば一蹴すべきくだらない議論かも知れない。
 その答えはまたしても猫君から与えられた。
吞気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」
 これだ。と思った。これだったのだ。「愚」はうわべ。目に見えるもの。うわべの愚を取り払った時、底にあるもの。聞けば悲しい音がするもの。
 孤独な人間。
 人間は、悲しい弱い生物なのだ。自然をその手で支配し、動物たちを従えても、まだまだ悲しく弱いのだ。人間は、「孤独」だから。だから、大人たちは苦沙弥先生の家に集まった。彼らは無意識かも知れないが、人を、求めて。人と人との接触で、自分を孤独から救おうとして。だから、彼らにとって話題なんてどうでもいいことだったのだ。誰かとしゃべっていられたら、それでよかったのだ。いくら利口ぶって世の中を鼻で笑って、そう、丁度猫君のように客観視しているつもりでも、それはただの寂しさ隠しだ。なあに、皆、愚かなやつばかりだと口先でせせら笑っていても、本当は自分が弱く、悲しいということ、孤独だということがわかっていたのではないか。
 孤独な人間。
 私が「吾輩は猫である」が好きなのは、この人間の底に潜んでいる「孤独」を無意識に垣間見ていたからではないだろうか。「孤独」だから、人間は優しくなれるのだと思う。無茶を言ってしまえば、どんなに愚かでも、そんなうわべはどうでもいい。底があるのなら。人間だって、そんな惨めなものじゃない。そう思ったら、一気に確信を持ててきた。
 優しい人間。
 「孤独」という一つの繋がりを持ち、人を求め合う人間。同じ人間同士、きっと上手くやって行ける。どんな世の中でも捨てたもんじゃない。人間の心の底に根付く優しさは、永久のものだと思うし、そうあって欲しい。それが今、私がやっと見つけた「人間」というものの答えなのだから。

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2019/08/13

『1リットルの涙』(木藤亜也)を読んで【高校生用】

 「このまま春休みになるまで様子をみるというのではいけませんか。」
と母が言うと医師は母の顔をじっと見ながら
「そんな悠長なことを言っている余裕はありませんよ、お母さん。今日の午後からでも入院してもらいたいくらいです。明日入院してすぐ検査を始めましょう。」
と言った。えっどういうこと。この先生は何を言っているの。私は頭が真っ白になり、状況が把握できず、まるで人事のように母と先生のやりとりを聞いていた。
 それは中学二年の三月の初めのことだった。二ヶ月くらい前から痺れていた私の左手は期末テストが終わるころにはほとんどものを握ることさえできなくなっていた。
「脊髄小脳変性症」
 先生はこの本の著者である木藤亜也さんと同じこの病気の疑いをもって私の検査を急いでいたのであった。原因もわからないまま、一日二回のステロイドの点滴を二週間続けた結果、私の左手の痺れは序々に改善され、ゼロだった握力も少しずつ戻ってきた。
「脊髄小脳変性症を疑って心配しましたが、治療の効果が出ているので違ったようです。よかったですね。」
という医師の言葉通りまもなく通院治療となり約三ヶ月で完治することができた。
 今回、この本を読んで医師がなぜ入院を急いだのか、何を心配してくれていたのかがよくわかった。そのくらい「脊髄小脳変性症」という病気は恐ろしく、そして残酷な病気だった。木藤亜也さんは原因も治療法もわからないこの難病と壮絶な戦いをしていた。
 ある日を境にどんどん衰えていき思い通りに動かなくなっていく自分の体。認めたくはないが少しずつではあれ確実に進行していく自分の病気。今まで当たり前のようにできていたことが少しずつできなくなっていく恐怖。いくら検査をしてもわからない原因に先の見えない不安。それらはどんなにかつらいことであっただろう。
 私は検査の苦しみを共感することはできる。たった一週間の検査期間に何個もの検査を行った。一時間ほど狭い機械の中で不安に苛まれながらじっとしておかなければならないMRI検査。私にとって騒音の中で一時間はとても耐え難いものだった。それに筋電図検査は言葉も出ないような検査だった。鉛筆の芯ほどもある太い針を筋肉に刺してグリグリと回すのだ。それも何ヶ所も。この痛みは経験した人でなければ断然わからない痛みだ。亜也さんはこんなつらく苦しい検査を何年にもわたってこなしていたのだ。けれど彼女の本当のつらさ、苦しさは検査やリハビリの痛みではなかった。神様に試されていると思うことで彼女は物理的な痛みにまっすぐ立ち向かっていたのだ。彼女が本当につらかったのは、病気に選ばれてしまったことで彼女の居場所が奪われていくことだったのではないだろうか。余儀なくされた転校。友達との別れ。家族に迷惑をかけているという自責の念。自分の力でできることに挑戦するたび病状が進むことによって裏切られていく自信。あきらめなければならないことがどれだけ多くあったことだろう。私は少しずつでも確実に治っているという希望があった。だからこそ検査や治療がつらくても耐えることができた。しかし、彼女はそうではなかった。どれだけ検査しても、治療を重ねても期待は裏切られじわじわと悪い方へ追い込まれていく。希望もなく先の見えない恐怖や焦燥感、自分の居場所や友達が失われていく喪失感。その苦しみはどれだけのものだったのだろう。
 それでも彼女は常に前向きだ。主治医に「悪くなることはあっても良くはならない。」と告げられた時、彼女は「すごくつらく苦しかったけど、本当のことを教えてくれてありがとう。自分はどういう風に生きて行ったらいいのか、道は狭まった。険しいけど、這ってでも前を向いて生きていきます。」と言っている。その勇気はどこから来るのだろう。私だったら絶望して生きる気力もなくし落ち込むだろう。しかし、その言葉通り彼女は言語障害によってしゃべれなくなったら書くことで、力が衰えて書けなくなったらボードを使って一文字ずつ自分の意志を伝え続けいつでも前向きに精一杯生き続けた。
 彼女の過酷な闘いを支えたのは次第に体の自由を奪われていく中で「私は何のために生きているのだろうか。」と何度となく自問して行きついた「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい。」という強い想いだと思う。そして、彼女の厳しい境遇の中でも前向きにひたむきに最善を尽くして生きるその生き様を知ることで勇気づけられたのは私だけではないはずだ。私は今ではすっかり回復し健康に高校生活を送っている。当たり前に日常生活を過ごせる幸運に甘んじることなく何事も前向きに取り組み、最善を尽くして生きていくことが彼女に報いる事だと思う。


『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読んで【高校生用】

 自分のことが好きだ、今の自分を受け入れられる、そう言うことができる人はどのくらいいるだろうか。私にはそんな自信はない。おもしろい人、運動ができる人、勉強が得意な人、自分に無い能力を持った人を見ると羨ましい、という感情が溢れ出す。今の自分を捨てたいと感じる。こんなみじめな底無し沼から誰か助けてくれないだろうか。そう思ったからこそ青年は哲人のもとを訪れたのではないだろうか。
 「嫌われる勇気」という本の題名に目を奪われた私は一人の青年として物語の中に入っていった。嫌われる勇気?それは一人孤独に生きろということなのか。そんなものが幸福につながるはずがない。
「嘘だ!そんなものは学者の詭弁にすぎません!」
 アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している。対人関係の中で傷付くことを怖れ、自分の思い描く行動ができないからそれが悩みになる。たしかに、この世界に誰もいなければ他人と比べることがなくなる。そうすれば劣っている、優れているといった評価もなくなる。しかし世界に誰もいなくなることは不可能だ。ということは一生悩みに囚われ、不安の中で生きていかなければならないのであろうか。
 そもそも自分のことが嫌いだと感じるのは劣等感を抱いているからだろう。しかし哲人は劣等感があるということが劣等性につながるわけではないと言う。劣等感とは他者と比較する中で自分が与えた価値、つまり「主観的な解釈であるのだ。」と。この話を読んだ私は同じような経験があることに気付いた。
 私は女子の中では背が高い。友達からは背が高くて羨ましいと言われることも多い。しかし私にとっては活かしていない長身であり、目立って嫌だという劣等感を抱く要素の一つだ。だが自分の身長について長所と見るか短所と見るかは自分次第なのだ。私はいつか祖母に言われた言葉をふと思い出した。
「胸を張って堂々と歩きなさい。」
 その言葉の意味が分かったとき、それは私の勇気へと変わった。背が高い。これが自己の個性だと思えば、それは幸福への一歩になると気付いた。
 けれども他者からの目や評価からは逃げられないのではないかと私は思う。そこで次に注目したのが哲人の言う「課題の分離」である。課題の分離とはその選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰なのかを考えることだ。他者を信じるかどうかは自分の課題、逆に自分からの信頼に対してどう行動するかは他者の課題だ。この課題の分離は私にとって衝撃的なものだった。しかし同時に心が軽くなるのを感じた。どれだけ人に好かれようとしても実際に他者が自分をどう見るかは他者の課題なのだ。それは自分ではどうしようもないものなのではないか。それなら好かれようと必死につくった自分ではなく、ありのままの自分を好きだと思ってくれる人を大切にするべきだろう。そしてこれこそが「嫌われる勇気」に違いない。
 ありのままの自分を好きだと言ってくれる人もいれば嫌いだと思っている人もいるだろう。けれどもその勇気さえ持っていれば本当に大切な人を見つけることができる。そんな人のために生きることを幸福と呼ぶのかもしれない。
 しかし勇気を持つということは難しい。難しいからこそ今、悩んでいるのだ。この本に勇気を持つ方法は書かれていない。だがこの本を手がかりにして考えることはできる。私にはとても印象に残った哲人の言葉がある。
「会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。
「ああ、そうか」と私は胸のつかえが下りた気がした。過去は変えられない。未来がどうなるかも分からない。そう、自分の人生を選択するのは「今」しかないのだ。今を精いっぱい自分らしく生きることで勇気は身に付いていくのだ。
 私は高校生になってから今するべきことから目を逸らしていたように思う。周りのレベルの高さに圧倒され、やる気が出なくなった。しないといけない、そう分かっていても集中力が続かず今を丁寧に生きることができていなかった。けれどもこれからは違う。勉強や部活動、身の回りのこと、それらを一つ一つこなしていこうと思う。そうすればおのずと勇気を持ち、大切な人のために生きていける。そのことが自分を好きになる第一歩だ。「嫌われる勇気」とは孤独なものではない。ありのままを生きる勇気だ。今からでも遅くはない。
 私は私の人生を、今を、精いっぱい、一生懸命に生きて行こう。青年と同じ清々しい気持ちで私は本を閉じた。

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『山椒魚』(井伏鱒二)を読んで【高校生用】

 あなたに私の気持ちなんて理解できないと友人に言い放たれたことがある。彼女は正しい。確かに私は彼女の心情を丸ごとは理解できなかった。私は彼女そのものではない。彼女に起きたことを我が身に置き換えて感情を推測することはできても、それは彼女が正に胸に抱いているものとは似て非なるものだ。自分が他人を完全に理解する日は、いつまで経っても訪れない。逆に、他人が自分を完全に理解してくれる日も、どれだけ待っても来てはくれない。そう思ったときからずっと、生き物は皆永遠に独りであるという考えが、水面の緩慢な渦に散らされた一片の白い花弁のように、私の頭の中でぐるぐると円周を描いている。
「ああ寒いほど独りぼっちだ!」
 暗く狭い岩屋から永遠に出られない山椒魚の悲痛な叫び。私が永久の孤独を感じた瞬間の、鳥肌が立つような感覚に似ている。山椒魚は私が手を伸ばせばすぐに触れられる位置で、か細くすすり泣いている。底なしの孤独が凛冽な寒さを放つことを、私は一生忘れない。
 誰かに自分を僅かでもいいから受け容れてほしい、孤独に冷えた自分を温めてほしいという欲が、私を捕らえて離さない。山椒魚も同じ気持ちなのかもしれない。外界から遮断され誰にも存在を知覚されない事実は、彼を絶望させる。彼は自身の存在価値さえも見出せない。他者に認められたい、更に自分自身を認めたいという願望を、彼はきっと持っただろう。しかしその願望によって、彼は憧れの対象であった蛙を岩屋に閉じ込めるという行動に突き進んでしまう。山椒魚は蛙との、傍から見れば無意味としか思えない口論を通して、再び自己を確立するが、そのせいで蛙は衰弱死する。彼は他者との交流を経て自身の存在意義を認識するという生き物の生の営みを実現したに過ぎない。しかしその営みが他者を破滅の道に追いやってしまうのなら、これほど遣る瀬ないことはない。
 蛙は山椒魚に不当に自由を奪われた。しかし蛙は山椒魚との生活を通じて彼の悲しみや苦悩に気づき、包み込み、彼の罪を赦す。一切の負の感情を認め、それらを超克した者にしか持てない強さが蛙には確かに存在する。その強さは、山椒魚を束縛した孤独と名の付く岩屋をいとも簡単に打ち砕いただろう。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
 蛙の死の間際の言葉。もしかすると蛙は最期まで自分を死に追いやった山椒魚に一抹の憎しみを抱えていたかもしれない。それでも山椒魚は蛙のこの言葉で救われたと信じたい。山椒魚の救いは私の救いにほかならない。
 互いの存在を確かめ合う行為は、本来ならば双方を温かい感情で満たすものだ。しかしそう簡単にはいかないというのもまた実情である。友人や家族との衝突はその身近な例だろう。もっと視野を広げてみれば、テロや民族紛争、国家間の対立などが挙げられる。同じ人間であるが、自分は他人そのものにはなり得ず、更には民族や文化、信仰や思想、境遇の違いからどうしても分かり合えない部分が存在してしまう。それが対立に繋がるのだと思う。その対立が生じたとき、私達の周りでは何が起きているだろうか。罵詈雑言を罵詈雑言で返す。テロの報復に空爆を行う。銃を撃ち合う。誰かが歯止めをかけない限り、連鎖したまま終わらない。山椒魚と蛙の当初の罵り合いのように。負の感情に支配されただ虚しく時間が過ぎるのみである。そうではなく、自分と他者は異なることを前提に相手の言葉に耳を傾け、ゆっくりと自分の中で咀嚼し、熟考し、受け止める。そして自分の考えや思いを丁寧に話し、認めてもらう。私達にはそれができるはずだ。私は自らの身体を、他者を含む周りの世界を破壊する道具ではなく、それらを優しく包み享受するための手段として用いたい。大人になるにつれて自らの世界が一気に広がり、今後様々な人と出会うだろう。グローバル化の進展に伴って、文化や宗教、民族を異にする人々との共存は免れない。その中で、私達は他者を真摯に眼差す態度が欠かせないのではないか。対立する考えの人と向き合うときは特に、それが非常に重要になるように思う。
 どうあっても他者と完全には理解し合えない。それは生き物が皆等しく抱える永遠の孤独であるという私の考えは、この本を読み切った後も変わらない。暗闇の中、寒さに耐えることを、誰もが心の中でいずれ必ず経験するはずである。しかしそこで生まれた悲しみや惨めさを暴力に変えて紛らわすのではなく、他者との温かな関わりの中で、自分自身の力でそれらに打ち勝たなければならない。蛙が岩屋で得たあの芯のある強さを、次は私達一人一人が手に入れる番である。山椒魚もその強さを手にしてほしい。そう願いながら、私はあの薄くて、しかし私の心の広い範囲を占める一冊を、再びそっと手に取って開く。

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『地獄変』(芥川龍之介)を読んで【高校生用】

 一言で言えば、残酷な物語である。己の愛娘が檳榔毛の車に乗せられ、紅蓮の炎に焼かれる様を眺め、それを「地獄絵図」の中に描いた絵師良秀。現実には到底有り得ない話だ。しかし、不思議と読後感は悪いものではなかった。それは、絵師良秀の「地獄絵図」に対するすさまじいまでの執着心、己の画業に対するこのうえない自負にすっかり心が奪われたためであろう。本来なら、己の描く絵のためなら、娘の命さえ犠牲にする良秀は、どのような厳しい非難にさらされても仕方のない立場である。しかし、そうはさせない魅力が良秀にはあるのだ。
 この「地獄変」という作品は、芥川龍之介によって大正二年に世に産み落とされた。古典の「宇治拾遺物語」の中に収められている「絵仏師良秀」がベースになっている。古典の中の良秀は、自分の家が火事になり、ただ一人逃げ出す。そして、妻子が逃げ遅れてまだ家の中にいるにも関わらず、家が激しく燃えさかる様を時々笑いながら眺めているのである。そして、その体験を生かして後世にまで伝わる「よぢり不動」の絵を残す。古典の中の良秀は、己の画業に固執する様子があまりにもさらりと描かれており、あまり残酷な印象を残さない。それに対して「地獄変」の良秀の芸道にかける意気込みは、作者の筆を借りて生き生きと描かれる。良秀は、ある時は弟子を耳木兎に襲わせ、またある時は裸にして細い鉄の鎖で後ろ手に縛り上げるといった暴挙に出る。しかし、何より不思議なのは、そのような非情な扱いを受けても尚、弟子たちが良秀の元を辞さないことだ。常識的に考えれば、良秀のように不気味で非人間的な師匠からは逃れたくなるのが普通なのではないだろうか。その、常識をさえ覆すほどの圧倒的な魅力が良秀とその作品にはあるのかもしれない。そして、それは古典の良秀と「地獄変」の良秀に見られる共通項だと言えよう。
 何かに打ちこむこと。それは、少なからず何らかの犠牲を生む。良秀は、絵のために愛娘の命、そして果ては己の命までも失うことになる。現代でも、ゴッホは自分が描いた自画像の左耳が似ていないと言われ、自ら耳を切り落としたという逸話が残っている。また、モネは愛する妻カミーユが臨終を迎える際にその刻々と変化していく顔色に心を奪われ、筆をとらずにはいられなかったという。そして、その結果モネは人物の顔の表情を描くことができなくなったそうだ。それ故、妻の死後描かれたモネの絵の人物には顔が描かれていない。しかし、私から見れば、その狂気とも言える芸術への情熱、己の画業に対する自負に対して羨望さえ抱かずにはいられない。
 私自身、中学校から始めたトランペット。吹奏楽への熱い思いは、誰に対しても胸を張って語ることができる。特に、中学校の三年間はまさに吹奏楽一色だった。毎日毎日、汗を流し、少しでも上達するように練習に魂を打ちこんだ。そして、上手に吹けた時は何より嬉しく、思い通りの音が出ない時は、人知れず悔し涙を流した。苦しいこと、辛いことも数え切れないほどあった。遊ぶ暇さえほとんどなかった。もちろん、私には良秀のように人の命を犠牲にすることなどできはしない。しかし、私自身、あれほど一つのことに打ちこみ、輝いていた時はない。だからこそ、芸術に対する異常な執念を見せる良秀にも共感を覚えてしまうのかもしれない。
 この作品の中に重要な位置を占める人物。それは、良秀に地獄絵図を描くように命じた大殿様である。彼なしにはこの作品は成立しない。良秀は、絵を描くために、車の中で女が炎と黒煙に攻められもだえ死ぬたと願い出る。それを快諾した大殿様は、良秀の娘をその車に乗せるのである。自分の意に沿わない娘に罰を与え、良秀をちょっと驚かせてやろう。おそらく大殿様は、ほんの悪戯心でそうしたのにちがいない。さすがに良秀も自分の娘を見殺しにはすまいと大殿様も踏んでいたのだろう。娘に対する意趣返し、良秀の性格を読み切れなかったこと。そうした大殿様の愚行が二人の尊い命を奪ったのだ。ここで私は、この作品の中で最も愚かで哀れなのは大殿様であると痛感せずにはいられなかった。
 古典の良秀には、後悔の念は微塵も感じられない。しかし、「地獄変」の良秀は絵の完成直後、自ら命を絶つ。猿ですら、人の恩を忘れず、娘と共に焼け死ぬ情を見せた。作者は、良秀を自害させることで良秀にも親としての情愛があることを示したのだろう。そうでなければ、この作品には全く救いがなくなってしまう。
 良秀が行ったのはおそらく地獄。そこで良秀は、自分の絵の通りだと大喜びしているかもしれない。「地獄変」は私に、「人生は地獄よりも地獄的である。」という芥川の名言を思い起こさせた。「地獄変」がもつ強烈な魅力。それは生涯私の心を捉え離さないだろう。


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『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海)を読んで【高校生用】

 私は私自身をマネジメントしようと思った。本来「マネジメント」とは、企業などの組織における管理や経営のことを示すから、この決意は理解されにくいかもしれない。でも私は、「私」という人物は複雑で多様な感情から成立している一つの組織であると考え、自分をより高めるために「マネジメント」しようと思ったのだ。
 私がこの本を手にとった理由は、野球が好きで興味を持ったからという単純なものだった。私は小学六年生の時から摂食障害と闘っている。食事が全くできなくなり、水分をとることも辛くなった。長い入院も経験し、死の危険にもさらされた。自分の存在を見失い、生きていることが嫌になった時期もあった。今は随分食事ができるようになり、回復してきてはいるが、完治はしていない。同級生に比べて体は極端に小さいし体力もない。
私は病気を治すために自分に何が必要かを考え続けている。そんなある日、この本と出会った。
 主人公のみなみはある高校の野球部のマネージャーで、自分のチームを甲子園に連れていくことを目標としていた。みなみはピーター・F・ドラッカーの著書『マネジメント』と出会い、本に従って野球部をマネジメントしていく。私は一度読み終えた時、「これはもしかして私に適応するのではないか・・・。」と思い、もう一度、野球部と自分を重ねながら読むことにした。
 マネジメントは『組織の定義づけ』から始まる。それには「顧客は誰か」を考える。みなみは、野球部にとっての顧客は野球部に協力してくれている全ての人達、そして野球部を成立させている『野球部員』であり、野球部は『顧客に感動を与えるための組織』だと定義した。だから私は、私にとっての顧客は、私を支えてくれている人達――家族・友達・先生、そして私自身も顧客だと考えた。
 みなみはマーケティングを行うために、顧客、すなわち部員の現実・欲求・価値を引き出そうとする。私も「私の顧客が求めているものは何か」を考えた。そこで行きつくのは、やはり「元気でいること」なのだ。私の家族も私自身も、私の病気が完治することを願っている。この欲求を満たすために、私は病気にうち勝たなければならない。これが私のマーケティングなのだ。
 みなみはイノベーションにも取り組む。私はイノベーションしたいことがある。一般的に私の病気は、精神面・身体面の両方が絡む複雑なもので、完治するには十年単位かかると言われている。これをどうしても覆したい。一日も早く病気を治し、この病気に対する一般論をすて、イノベーションを起こしたい。みなみ達が『送りバント』と『ボール球を打たせる投球術』をすてて革新していったように。
 読み進めるうちに、私はマネジメントの役割を既にいくつか実践していることにも気付いた。それは「働く人を生かす」ことと「社会の問題について貢献する」ことだ。私は自分の病気を理解する為に身につけた栄養学的な知識を利用して、母の毎日の食事作りや献立作りを手伝っている。これが私の能力を生かすことにつながっていると思う。また、病気になったことで、病気や障害を抱える人達の気持ちを理解できるようになり、今は、知的障害や発達障害をもつ子供達に関わる仕事がしたいという夢をもって勉強している。これが、社会の問題に貢献することにつながるのではないだろうか。
 みなみは甲子園出場をかけた決勝戦の日に、大切な親友、夕紀を失ってしまう。私は、みなみがここまで野球部を成長させたことで夕紀は感動に満たされ、満足したから、後悔なくこの世を旅立ったのではないかと感じた。
 みなみ達は見事甲子園出場を決める。このことだけでも十分顧客に感動を与えたに違いない。この本にはその先のことは書かれていないが、選手達はさらに多くの感動を与えるため、きっと勝ち進んでいくだろう。
 ある日私は、母から嬉しい一言を聞いた。
「麻紀が前よりずっといろんな物が食べられるようになって嬉しいよ。感動したよ。」
私は本当に少しずつではあるが、病気に勝つ為に一歩一歩進んできた。何も食べられず二十四時間の点滴をしていた状態から、一口、二口とだんだん食べられるようになり、少しずつ回復してきた。それが顧客の一人である母に感動を与えていた。私の事業が成果を出していることが分かり嬉しくなった。だから私も、さらなる感動を与えるためにもっと前進しよう。完全に病気を克服し、私のマネジメントを成功させるために。
 私はもう一度自分と向き合おうと思った。顧客であるみんなが、そして私自身が、価値ありとし、必要とし、求めているものは何か・・・。それに向き合うことが、病気にうち勝ち、自分をより成長させるためのステップなのだと、この本が教えてくれた。

『舟を編む』(三浦しをん)を読んで【高校生用】

 「なにかを生みだすためには、言葉がいる。……生命が誕生するまえの海……混沌とし、ただ蠢くばかりだった濃厚な液体……ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。……言葉によって象られ、昏い海から浮かびあがってくる」――『舟を編む』の中で、最も気に入った一節である。「昏い海」とは、混沌とした人の感情であり、それに形を与え、互いの感情を共有するべく、生み出されたものが、言葉ではないだろうか。
 私は日本語が好きだ。私たちが日常的に、意思疎通のツールとして使っている言葉――だが日本語には、単なる言語を超えた魅力がある。たとえば雨の名前。『時雨』『夕立』『霧雨』……降る季節、時間、量によって、細かに名づけ分けられた呼称。繊細で濃やかで多彩で、なんてすばらしい言語なんだろう。
 辞書は、そんな日本語の世界で、迷子にならずに思いを言葉にするための、ナビゲーターだ。「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」――理想の辞書作りに賭してきた、荒木と松本先生の三十数年。「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。……もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原を前にたたずむはかないだろう」『海を渡るにふさわしい舟を編む』――こうして、まだ若い馬締を後継者に、新たなる理想の辞書、「大渡海」の編纂が始まるのだ。
 辞書という書物は、同じ出版物でも、雑誌や小説といった華やかな世界とは対極にある、地味な分野だ。編纂には、十数年単位という膨大な時間、莫大な費用がかかる。根気もいる。それでも、馬締をはじめとする玄武書房辞書編集部の面々は、周囲が危ういと感じるほど、言葉に耽溺し、辞書編纂にのめり込んだ。そこには、言葉への愛着、客観的で鋭い言語感覚、その両者が必要だ。辞書作りの大変さは、「言葉を、別の言葉で定義する」ところにあるだろう。言葉をわかりやすく定義するには、別の言葉が必要であり、突き詰めていくと、きりがない。どこかで区切りをつけねばならないが、その見極めが彼らを悩ませる。「あがる」と「のぼる」、「おませ」と「おしゃま」など、類義語の微妙な違いは何か、またその違いを、限られた字数内で明示するには――言葉が人間を翻弄するかのごとき、産みの苦しみ。だが馬締たちは、愚直に言葉と向き合い、あてどない作業にも屈することなく、渾身の一冊『大渡海』を編み上げたのだった。彼らを支え、突き動かしたのは、まさに言葉への愛と執念に他ならない。言葉の奥深さに魅せられ、『舟を編む』という理想に生涯を捧げた人々、その「愚直さ」こそが、何より美しく尊いと思う。
 これほどまではいかずとも、生涯をかけて夢中になれるものが、私にはあるだろうか。自分のすべてを賭して、やり遂げる価値のある一生涯の仕事が。己の信念に忠実であること、自分が本当に価値あると信じたものを、生涯かけて体現してゆくこと、目標が達成されるまで、粘り強く格闘し続ける熱意――この本を読んで、自分の理想の大人像が、ほんの少しではあるが、見えてきた気がする。
 もう一つ、印象に残ったことがある。それは、言語の持つ「政治的影響力」についてだ。外国では辞書を、国家が公的資金を費やして出版することがあるという。「自国語の辞書の編纂は、国家の威信をかけてなされるべきだ」――民族のアイデンティティのひとつである言語の統一・掌握が、国民の思想の統一・掌握につながる、という側面。驚愕だった。言葉が、人々の「生きた思いを伝える」ためではなく、「権威づけや支配の道具」として使われるという事実。だが、松本先生は言う。「言葉は、言葉が生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです」――その通りだと思う。だとしたら、外国と違い、辞書の編纂が各出版社に委ねられている、言語が権力とは無縁のところで自由に存在している日本こそ、「言論・思想の自由」という理念にかなっているのではないだろうか。「『大渡海』が、自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟になるように」という先生の願いが、改めて胸に響いた。
 近年のグローバル化に伴い、英語学習や国際交流がクローズアップされる中、日本語は何かと疎かにされがちのように思う。人々の思いが凝縮された辞書が存在し、「言語の自由」が守られている我が国で、その日本語が蔑ろにされている風潮を感じるのだ。だが、国際志向が高まり、異文化が混在する今だからこそ、母国語たる日本語を大切にすべきではないか。日本語は、私たち日本人が日本人であることの証である。辞書一つに、こんなにも奥深い世界がある。幾多の人々の情熱と研究の結晶である辞書を、もっと大切に扱い、日常的に活用したい。言葉を慈しみ、その可能性を知り、自らのアイデンティティの根幹である日本語を大切にしたいと、心から思う。

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