2019/08/13

『1リットルの涙』(木藤亜也)を読んで【高校生用】

 「このまま春休みになるまで様子をみるというのではいけませんか。」
と母が言うと医師は母の顔をじっと見ながら
「そんな悠長なことを言っている余裕はありませんよ、お母さん。今日の午後からでも入院してもらいたいくらいです。明日入院してすぐ検査を始めましょう。」
と言った。えっどういうこと。この先生は何を言っているの。私は頭が真っ白になり、状況が把握できず、まるで人事のように母と先生のやりとりを聞いていた。
 それは中学二年の三月の初めのことだった。二ヶ月くらい前から痺れていた私の左手は期末テストが終わるころにはほとんどものを握ることさえできなくなっていた。
「脊髄小脳変性症」
 先生はこの本の著者である木藤亜也さんと同じこの病気の疑いをもって私の検査を急いでいたのであった。原因もわからないまま、一日二回のステロイドの点滴を二週間続けた結果、私の左手の痺れは序々に改善され、ゼロだった握力も少しずつ戻ってきた。
「脊髄小脳変性症を疑って心配しましたが、治療の効果が出ているので違ったようです。よかったですね。」
という医師の言葉通りまもなく通院治療となり約三ヶ月で完治することができた。
 今回、この本を読んで医師がなぜ入院を急いだのか、何を心配してくれていたのかがよくわかった。そのくらい「脊髄小脳変性症」という病気は恐ろしく、そして残酷な病気だった。木藤亜也さんは原因も治療法もわからないこの難病と壮絶な戦いをしていた。
 ある日を境にどんどん衰えていき思い通りに動かなくなっていく自分の体。認めたくはないが少しずつではあれ確実に進行していく自分の病気。今まで当たり前のようにできていたことが少しずつできなくなっていく恐怖。いくら検査をしてもわからない原因に先の見えない不安。それらはどんなにかつらいことであっただろう。
 私は検査の苦しみを共感することはできる。たった一週間の検査期間に何個もの検査を行った。一時間ほど狭い機械の中で不安に苛まれながらじっとしておかなければならないMRI検査。私にとって騒音の中で一時間はとても耐え難いものだった。それに筋電図検査は言葉も出ないような検査だった。鉛筆の芯ほどもある太い針を筋肉に刺してグリグリと回すのだ。それも何ヶ所も。この痛みは経験した人でなければ断然わからない痛みだ。亜也さんはこんなつらく苦しい検査を何年にもわたってこなしていたのだ。けれど彼女の本当のつらさ、苦しさは検査やリハビリの痛みではなかった。神様に試されていると思うことで彼女は物理的な痛みにまっすぐ立ち向かっていたのだ。彼女が本当につらかったのは、病気に選ばれてしまったことで彼女の居場所が奪われていくことだったのではないだろうか。余儀なくされた転校。友達との別れ。家族に迷惑をかけているという自責の念。自分の力でできることに挑戦するたび病状が進むことによって裏切られていく自信。あきらめなければならないことがどれだけ多くあったことだろう。私は少しずつでも確実に治っているという希望があった。だからこそ検査や治療がつらくても耐えることができた。しかし、彼女はそうではなかった。どれだけ検査しても、治療を重ねても期待は裏切られじわじわと悪い方へ追い込まれていく。希望もなく先の見えない恐怖や焦燥感、自分の居場所や友達が失われていく喪失感。その苦しみはどれだけのものだったのだろう。
 それでも彼女は常に前向きだ。主治医に「悪くなることはあっても良くはならない。」と告げられた時、彼女は「すごくつらく苦しかったけど、本当のことを教えてくれてありがとう。自分はどういう風に生きて行ったらいいのか、道は狭まった。険しいけど、這ってでも前を向いて生きていきます。」と言っている。その勇気はどこから来るのだろう。私だったら絶望して生きる気力もなくし落ち込むだろう。しかし、その言葉通り彼女は言語障害によってしゃべれなくなったら書くことで、力が衰えて書けなくなったらボードを使って一文字ずつ自分の意志を伝え続けいつでも前向きに精一杯生き続けた。
 彼女の過酷な闘いを支えたのは次第に体の自由を奪われていく中で「私は何のために生きているのだろうか。」と何度となく自問して行きついた「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい。」という強い想いだと思う。そして、彼女の厳しい境遇の中でも前向きにひたむきに最善を尽くして生きるその生き様を知ることで勇気づけられたのは私だけではないはずだ。私は今ではすっかり回復し健康に高校生活を送っている。当たり前に日常生活を過ごせる幸運に甘んじることなく何事も前向きに取り組み、最善を尽くして生きていくことが彼女に報いる事だと思う。