2019/08/26

『伊豆の踊り子』(川端康成)を読んで【高校生用】

 作品というものは、その物語を読んだ全ての人の心の中に、生き続ける。
 最近、私は自分を見つめ直す機会が多くなったように思う。その分、自己嫌悪に陥る事も多い。いつも自分を一番大切にして、自己中心的に生きている自分がやけに目につくのだ。そして、知らず知らずのうちに他人を傷つけ、苦しませたり、人の欠点を見つけては自分を正当化しようとしている事に気付く。私がこの本に出会ったのは、ちょうどそんな時だった。
 自分の生いたちからくるゆがんだ心に対する反省の息苦しさに堪え切れずに旅に出た一高校生の「私」は、天城峠で出会った旅芸人一行と道連れになり、その中の若い踊り子にひかれてゆく。
 この作品の主題はどこにあるのだろうか。それは「私」の心情の変化にあると思う。旅の途中、「私」は踊り子にひかれてゆくと同時に、踊り子が身につけている古風な礼儀や、その中から発露する幼さ、純粋さに触れることによって、「私」のこのゆがみが純化されてゆくのだ。一人の人間の性質を根本から変えてしまう、これはすごいことだと思う。人は皆、誰でも小さな頃から培われた独自の感覚を持っている。それを初対面の者がくつがえすというのだ、この踊り子の清純さは並大抵ではないことが伺い知れる。
 私が、数多くある本の中からこの一冊を選ぶことができたのは、ただの偶然ではなかったように思う。多分、「私」と私には共通点がいくつかあったのだろう。その一つに心のゆがみも含まれている。この気持ちとは、自分や他人のマイナスな部分ばかりを見て、プラスな部分に目が向けられないということなのだと思う。確かに人間には自己嫌悪や反省は必要なものだとは思う。しかし、そればかりでは何の解決にもならない。大切なのは次へつなげるという意識なのである。これまでの「私」にはそれがなかった。だからこそ、反省の息苦しさに堪えられず、伊豆へ「逃げ」の旅に出たと言える。すなわち、ゆがんだ心を洗い流すということは、負の感情だけだった心に、正の感情を同居させるということだと思うのである。
 素朴な旅芸人たちとのやりとりや、踊り子薫の清純な安に救われた「私」は、彼らとの別れの後、東京に向かう船室ですがすがしい思いで涙する。
 このラストシーンは一杯の名場面であると思う。最後の一文には、「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろこぼれ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」と、ある。この一文には考えさせられるものがあると思う。「私」に涙を流させたものは一体何だったのだろうか。踊り子達に二度と会えないだろうという淋しさ、一つの恋が終わりを告げたことへの感傷、自分のこれからの人生への不安、きっとそのどれもがこの涙に込められているのだろうと思う。しかし、その中であえて私が強調したいのは安心感、そして解放感である。この気持ちが他のどんな気持ちより強かったとは言えないが、確かにこの時の「私」の中にはこの二つの気持ちが存在していたのではないかと思う。この気持ちを強調したい。なぜなら、この安心感と解放感こそが、私がこの作品を読んで感じたことだからだ。人は一人では生きていけない。私達は年を重ねる度に淋しさを増していくのだと思う。「自立する」という言葉とはうらはらに、だ。だからこそ、人は自分を強くしようとする。孤独を背負っていくために。しかし、人は必ずしも孤独ではない。支えてくれる、背を押してくれる、一緒に歩いてくれる「誰か」はきっと近くにいるし、見つからなくても焦る必要はない。心を開くことのできる存在の有ることを信じていれば必ず現れると思う。だからこそ、現実世界の、あらゆる事に対して自分に完璧を要求し、自分を追いつめる必要はないのだ。人には必ず何か足りない部分はあるのだから、ゆっくり、ゆっくり自分のペースで、他人を受け入れ、自分を受け入れる。そのうちに、
人は自分に欠けている「何か」を埋めてくれる人に出会い、ひかれ合う。その繰り返しで、人とは形成されてゆくものではないだろうか。この作品には、「私」と踊り子の関わりの裏に、そんなメッセージが隠されているような気がするのである。
 そして、この作品は生き続ける。私達、この物語を読んだ全ての人の心の中に、登場人物達も生き続けているのだ。現代社会に生きる私達と同じように今も、そしてこれからも。結末をただの終わりとして受けとめるのではなく、そこから新たに始まる「何か」に気付き、それを受けついでいくことが、私たちの日常生活のどんな場合にも求められている事ではないだろうかと思うのである。

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