2019/08/26

『吾輩は猫である』(夏目漱石)を読んで【高校生用】

 気付くと手が伸びている本、というのがある。それが、この『吾輩は猫である』だ。とにかく面白い。初めて読んだのは小学三年生の時、当時の感想は「つまらない。」今では、一番好きな本は『吾輩は猫である!』と答える私である。
 それにしてもこの「猫君」の泰然たること。いたって客観的かつ冷静である。そうしてみると、人間たちの何と滑稽なことか。苦沙弥先生の家を訪れる知識人の面々。話題はアルキメデスあり、新体詩あり、エピクタテスあり、さすが当世の知識人、なのだが。この人たちは、どこかおかしい。間が抜けている。くだらないことを話題にして、混ぜ返してみたり、真面目になってみたり。一体何者なんだ、この人たちは? と、思う。そして、私は急に大きな壁に突き当たる。
 「人間って、何者?」
 いきなり話が大きく飛ぶかも知れない。けれども、知識人からしてこうなのだ。つかめない。人間はどういう生き物であるのか。猫君の視線で行くと、人間とは我が儘で、変な冗談でボーイをからかい、首縊りの力学を演説し、枕元に山の芋を置いて寝るものである。これまたつかみ所のない人間像である。しかし、私はこれにいたく共感してしまった。すんなり受け入れられた。人間というのはこんなものだ、いつでも一歩離れた所から見ると、愚にもつかないことをしている。この知識人たちが、滑稽な人間の象徴なのだ。
 愚かな人間。
 しかし、どうもすっきりしない。何か違う。人間は、愚かという言葉だけでは言い切れない。まだ、何かあるように思うのだ。
 けれども私は猫君曰く、小さい坊やは「ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない」で、また元の堂々巡りに引き戻されてしまう。坊やは、やりたい放題の暴君である。やりたいことをやって満足している方が、なるほど、よっぽど悟っている。この知識人たちが、部屋の中であれこれ議論し、何が変わったか。どう変わったか。
 愚かな人間。
 考えてみると、この私も人間だ。私も愚かなことをしているだろうか。猫君に、そうだそうだ、と安易に共感していることが愚かかも知れない。人の意見に引きずられる、主体性のない人間だ。
 ただ、ここまで来ても人間を「愚」と言い切ってしまうのには不安が残る。先生が、寒月君が、迷亭が、腑甲斐無さの合間から、何かをのぞかせている。しかし、それが何かと言われるとよくわからない。私が人間をさっさと「愚」で片付けてしまわないのは、私も人間で、「愚」なんて嫌だという私の「愚」のせいかも知れない。これも猫君から見れば一蹴すべきくだらない議論かも知れない。
 その答えはまたしても猫君から与えられた。
吞気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」
 これだ。と思った。これだったのだ。「愚」はうわべ。目に見えるもの。うわべの愚を取り払った時、底にあるもの。聞けば悲しい音がするもの。
 孤独な人間。
 人間は、悲しい弱い生物なのだ。自然をその手で支配し、動物たちを従えても、まだまだ悲しく弱いのだ。人間は、「孤独」だから。だから、大人たちは苦沙弥先生の家に集まった。彼らは無意識かも知れないが、人を、求めて。人と人との接触で、自分を孤独から救おうとして。だから、彼らにとって話題なんてどうでもいいことだったのだ。誰かとしゃべっていられたら、それでよかったのだ。いくら利口ぶって世の中を鼻で笑って、そう、丁度猫君のように客観視しているつもりでも、それはただの寂しさ隠しだ。なあに、皆、愚かなやつばかりだと口先でせせら笑っていても、本当は自分が弱く、悲しいということ、孤独だということがわかっていたのではないか。
 孤独な人間。
 私が「吾輩は猫である」が好きなのは、この人間の底に潜んでいる「孤独」を無意識に垣間見ていたからではないだろうか。「孤独」だから、人間は優しくなれるのだと思う。無茶を言ってしまえば、どんなに愚かでも、そんなうわべはどうでもいい。底があるのなら。人間だって、そんな惨めなものじゃない。そう思ったら、一気に確信を持ててきた。
 優しい人間。
 「孤独」という一つの繋がりを持ち、人を求め合う人間。同じ人間同士、きっと上手くやって行ける。どんな世の中でも捨てたもんじゃない。人間の心の底に根付く優しさは、永久のものだと思うし、そうあって欲しい。それが今、私がやっと見つけた「人間」というものの答えなのだから。

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