2019/08/13

『山椒魚』(井伏鱒二)を読んで【高校生用】

 あなたに私の気持ちなんて理解できないと友人に言い放たれたことがある。彼女は正しい。確かに私は彼女の心情を丸ごとは理解できなかった。私は彼女そのものではない。彼女に起きたことを我が身に置き換えて感情を推測することはできても、それは彼女が正に胸に抱いているものとは似て非なるものだ。自分が他人を完全に理解する日は、いつまで経っても訪れない。逆に、他人が自分を完全に理解してくれる日も、どれだけ待っても来てはくれない。そう思ったときからずっと、生き物は皆永遠に独りであるという考えが、水面の緩慢な渦に散らされた一片の白い花弁のように、私の頭の中でぐるぐると円周を描いている。
「ああ寒いほど独りぼっちだ!」
 暗く狭い岩屋から永遠に出られない山椒魚の悲痛な叫び。私が永久の孤独を感じた瞬間の、鳥肌が立つような感覚に似ている。山椒魚は私が手を伸ばせばすぐに触れられる位置で、か細くすすり泣いている。底なしの孤独が凛冽な寒さを放つことを、私は一生忘れない。
 誰かに自分を僅かでもいいから受け容れてほしい、孤独に冷えた自分を温めてほしいという欲が、私を捕らえて離さない。山椒魚も同じ気持ちなのかもしれない。外界から遮断され誰にも存在を知覚されない事実は、彼を絶望させる。彼は自身の存在価値さえも見出せない。他者に認められたい、更に自分自身を認めたいという願望を、彼はきっと持っただろう。しかしその願望によって、彼は憧れの対象であった蛙を岩屋に閉じ込めるという行動に突き進んでしまう。山椒魚は蛙との、傍から見れば無意味としか思えない口論を通して、再び自己を確立するが、そのせいで蛙は衰弱死する。彼は他者との交流を経て自身の存在意義を認識するという生き物の生の営みを実現したに過ぎない。しかしその営みが他者を破滅の道に追いやってしまうのなら、これほど遣る瀬ないことはない。
 蛙は山椒魚に不当に自由を奪われた。しかし蛙は山椒魚との生活を通じて彼の悲しみや苦悩に気づき、包み込み、彼の罪を赦す。一切の負の感情を認め、それらを超克した者にしか持てない強さが蛙には確かに存在する。その強さは、山椒魚を束縛した孤独と名の付く岩屋をいとも簡単に打ち砕いただろう。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
 蛙の死の間際の言葉。もしかすると蛙は最期まで自分を死に追いやった山椒魚に一抹の憎しみを抱えていたかもしれない。それでも山椒魚は蛙のこの言葉で救われたと信じたい。山椒魚の救いは私の救いにほかならない。
 互いの存在を確かめ合う行為は、本来ならば双方を温かい感情で満たすものだ。しかしそう簡単にはいかないというのもまた実情である。友人や家族との衝突はその身近な例だろう。もっと視野を広げてみれば、テロや民族紛争、国家間の対立などが挙げられる。同じ人間であるが、自分は他人そのものにはなり得ず、更には民族や文化、信仰や思想、境遇の違いからどうしても分かり合えない部分が存在してしまう。それが対立に繋がるのだと思う。その対立が生じたとき、私達の周りでは何が起きているだろうか。罵詈雑言を罵詈雑言で返す。テロの報復に空爆を行う。銃を撃ち合う。誰かが歯止めをかけない限り、連鎖したまま終わらない。山椒魚と蛙の当初の罵り合いのように。負の感情に支配されただ虚しく時間が過ぎるのみである。そうではなく、自分と他者は異なることを前提に相手の言葉に耳を傾け、ゆっくりと自分の中で咀嚼し、熟考し、受け止める。そして自分の考えや思いを丁寧に話し、認めてもらう。私達にはそれができるはずだ。私は自らの身体を、他者を含む周りの世界を破壊する道具ではなく、それらを優しく包み享受するための手段として用いたい。大人になるにつれて自らの世界が一気に広がり、今後様々な人と出会うだろう。グローバル化の進展に伴って、文化や宗教、民族を異にする人々との共存は免れない。その中で、私達は他者を真摯に眼差す態度が欠かせないのではないか。対立する考えの人と向き合うときは特に、それが非常に重要になるように思う。
 どうあっても他者と完全には理解し合えない。それは生き物が皆等しく抱える永遠の孤独であるという私の考えは、この本を読み切った後も変わらない。暗闇の中、寒さに耐えることを、誰もが心の中でいずれ必ず経験するはずである。しかしそこで生まれた悲しみや惨めさを暴力に変えて紛らわすのではなく、他者との温かな関わりの中で、自分自身の力でそれらに打ち勝たなければならない。蛙が岩屋で得たあの芯のある強さを、次は私達一人一人が手に入れる番である。山椒魚もその強さを手にしてほしい。そう願いながら、私はあの薄くて、しかし私の心の広い範囲を占める一冊を、再びそっと手に取って開く。

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