「決して打ち明けるな。隠せ。」これは呪縛だ。丑松が自分の祖先から、そして自分自身から解き放たれることは決してできないという。そして丑松が自分の本来の姿を出さぬよう生きていかなくてはならないという。なぜ自分を捨てて生きていかなくてはならないのか。ただ被差別部落民の名のもとで差別を受けなくてはならないのか。残酷な人間同士の傷つけあいには、心の中の恐怖が大きく影響しているように思う。
人間は常に心の中に恐怖を持っていると思う。人から仲間外れにされたくない。人から遅れたくない。人に軽蔑されたくない。この心の弱さが自分を守るという行為に走らせる。そして自分の位置を確立するために自分より下の人をつくろうとする。ただ自分を守ることで必死なのだ。
何を犠牲にしても自分さえ良ければ、という気持ちは、私にも確かにある。自分が傷つきたくないから、自分を守りたいから、人を傷つけてしまったこともある。でも、そんな事をしても本当に悪いと思えないのも事実だ。自分の立場が良くなればそれで安心してしまい罪悪感を覚えることもないのだ。そういう自分を恥ずかしいと思う。情けないと思う。でも本当に悲しいのは自分が悪いと気付かないことだ。いや、認めたくないと気付かないふりをしているだけかもしれない。普通に教育を受けてきた私にとって、善悪を区別することは簡単なことなのだから。しかし自分を大切だと思うことが全ての悪を、罪を、隠そうと認めまいとするのだ。どんなに口できれい事を言ったところで、心の奥底にはずるい気持ちがうずまいているのだ。
では、自分より大切なものに出会えた人はどうだろう。お志歩はなぜ丑松が被差別部落民と知ってなお結婚したいと思ったのか。答えは簡単だ。ただ丑松と一緒に生きていきたい、そう思ったからだ。他人が勝手につけた値打ちによって苦しみ、ふりまわされることもあるかもしれない。それでも共にその苦しみを乗り越え、真の姿を認めてあげたいと思った時、人は自分の中の弱さに打ち勝つ勇気を手に入れるのではないだろうか。しかしそれを手に入れることが難しいからこそ、差別が今も消えてはいないのだ。
人には背負っていかなくてはならないものが必ずある。周りが決めた物さしで勝手に差のあるスタート地点に立たされる。ずっと後ろに立たされた丑松、猪子、高柳。彼らのレースは、同じ被差別部落民という同じ障害をもちながら全て違っていた。丑松は自分が差別されることへの疑問も常に持ち続けていた。しかし高柳はただ自分が被差別部落民であるという恐怖だけをもっていた。大きな違いである。だからその障害につまづいた時、つまり自分が被差別部落民だとみんなに知られた時、高柳は自分で二度と起き上がろうとはしなかっただろう。しかし丑松は違う。「我はえたなり。」丑松は自分から告白した。これで自分は永久に誰にも受け入れられなくなるかもしれないという覚悟で。そして再び起き上がったのだ。
懸命に生きていく丑松の姿は生徒の目に純粋にまぶしく映ったにちがいない。生徒達は告白の後も丑松を慕い続けた。教師として理想の在り方だと思う。教師として以前に人間としての丑松への生徒の尊敬。丑松と生徒との信頼関係にうらやましさを覚える。
私にも教師になりたいという夢がある。丑松のように生徒に希望や力を与えられたら、と思う。しかし本当に丑松のような強さを持てるだろうかと不安になる。自分を飾り自分を守って生きていくことを否定しきれない自分もいるのに。しかし全てを取り除いた後の私には何が残るのだろう、そう問いかけた時はっきりと答えられない自分に愕然とした。自分の人生に自信を持てていない人に他の人へ希望べ力を与えることなんてできはしない。私は自分のレースをただ前だけを見つめて走れてなどいないのだ。周りの人の目を気にしてぎこちなく走っているにすぎないのだ。何も飾らず、自分のレースを自分らしく走りたい。そう思う。
本当の平等とは何なのか分かってきたような気がする。自分らしく自分のレースを一生懸命走る、その一生懸命さこそが皆同じなのだ。それぞれの人の努力には誰も軽腰も差別もできるはずがない。自分の人生を、愛しながら進んでいこう。自分らしく生き始めた時、きっと他の人のその人らしさを認めることができるはずだから。そして自分の弱さに打ち勝つ強い愛を持って生きていきたい。
本当の平等とは何なのか分かってきたような気がする。自分らしく自分のレースを一生懸命走る、その一生懸命さこそが皆同じなのだ。それぞれの人の努力には誰も軽腰も差別もできるはずがない。自分の人生を、愛しながら進んでいこう。自分らしく生き始めた時、きっと他の人のその人らしさを認めることができるはずだから。そして自分の弱さに打ち勝つ強い愛を持って生きていきたい。