武士の行動規範の書である『葉隠』では、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という一句が示すように、常に「死」と隣り合わせで物事を考え、行動せよという思想が、全ての教えの骨子となっている。『葉隠』は武士の為の書であるから、現代人に照らし合わせるのは難しいかもしれない。しかし、例えば、「自分の命は今日限りかもしれない」と思って、学校へ行ったり、仕事をすると、その時間はきっと濃密になるだろう。これがまさに、武士の持つべき、理想的緊張感である。また、「もう、この人は死ぬんだ」と思って、恋人と出会うと、どうしようもなくいとおしくなって、優しくなれるだろうし、辛いだろうが充実した時を過ごせるだろう。私は前者の心構えを『葉隠』で知り、後者を『風立ちぬ』で知った。
『風立ちぬ』の作中では、常に「節子の死」がバックグラウンドとして用意されている。婚約者である「私」も、節子自身も、その父も、節子の短い命を知っているのである。しかし、もはや残り少ない命を受け入れて、節子は「私」と愛を語らう。静謐とした、自然に囲まれたサナトリウムで、「死」の黒い影に怯えながらも、懸命に生きようとする節子の、あまりに健気な姿。そして、それを見守る「私」の深い愛。二人の切なくなるほど誠実な生き方に、私は深く心を打たれた。そこには、現代人が失いつつある、「懸命な愛と生」が具現化されていたからだ。
しかしながら、「懸命な愛と生」は死に近い者を気丈にさせるが、残される者にとっては、つらく悲しいものである。例えば、「私」が、ある筈の無い未来について考えてしまうが、自らの死を覚悟した節子の言葉を聞いて、産しさを覚える場面などは、その苦しみを真正面から描いている。「懸命な愛と生」は、生きる者に痛みや苦しみを、容赦なく与えてくる。
確かに、景に人を愛するには、多大なリスクが伴う。命に愛すれば愛するほど、失った時の悲しみは大きい。「私」もまた、懸命に節子を愛した結果、彼女を失うと、一時は空になってしまう。しかし、劇的なリルケの詩句に救われ、「私」は「生」に向かって歩き始める。このリルケの詩句「レクイエム」は「死」を歌いながら、逆説的に「生」の輝きを増させるという手法を取っている。そのような意味で、この詩句は『風立ちぬ』を象徴していると言える。鎮魂歌は必ずしも死者に手向けられているわけではない。むしろ、残された者に手向けられているとさえ言える。堀辰雄が訴えかけているのは、決して死の残酷さや苦しさではなく、生きている者の強さと美しさだったのだ。
そして物語は収束する。「私」は、僅かだと思っていた小屋の明りの意外なまでの拡散を見て、自らの「生」の尊さを知る。こうして、「死」を背景にして、最後に「生」の尊さを証明するという、逆説的な物語は完結する。幻想的に、美しく、そして強く……。
『風立ちぬ』を読了した後、私は虚空を見つめ、生きる事と愛する事について思案した。モノが溢れかえり、食料は豊富にある。かつてないほどに生きることが容易になり、「死」は忘却の彼方へと追いやられた。しかも、現代はそれを赦し、認めてしまっている。このように「死」が忘れ去られた中で、果たして『風立ちぬ』で具現化されているような「懸命な愛と生」が実践されうるのか。否、されないだろう。
「死」という喪失から遠ざかってしまった人間に、「愛」や「生」という、喪失が前提とされているものの、根源的な価値を認める事など出来ない。その証拠に、現代の風潮では「愛」はメディアのエンターテイメントと化しており、一方「生」は、それを軽々しく扱う人間によって引き起こされる、残虐な殺人事件によって蹂躙されている。現世的な利益を求める事が至上とされる思想が跋扈し、「懸命な愛と生」の持つ、深く広い意義は軽視された。しかし、昨秋に起きた同時多発テロのような悲劇に見舞われて、初めてその意義は思い出されるだろう。
今、ただ生きている事だけに満足してしまっている人間が求めなければならないのは、「死」を畏怖する心であり、それを見据えた「懸命な愛と生」であり、その価値を教えてくれる『風立ちぬ』という、純粋で誠実な書物の存在ではないだろうか。