2019/08/27

『鉄道員』(浅田次郎)を読んで【高校生用】

 彼は、きっと無器用なのだ。鉄道員、つまりポッポヤである乙松は、無器用にしか生きられなかった。死んだ子供を旗を振って迎え、妻の危篤にかけつけることもできなかった。私は、そんな彼に絶句しながらも、なぜか自分がみじめに思えた。彼に比べたら、自分は生きた抜けがらのようだ。
 鉄道員として生きる、とはどういうことか。「―として生きる」ということを捨てられない生き方とはどういうものなのだろう。私はその思いをあえて「信念」と呼びたい。
 「自分の『信念』は何か」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。また、答えた人の中に、それを貫き通せる人はいるだろうか。少なくとも私は、この質問に答えることができない。
 「ポッポヤやめたらもう泣いていいだろうか。」胸をうち抜かれたような衝撃が、体中に走った。人間という生き物は、自分の気持ちを押し殺してまで、「信念」を貫き通すことができるのだろうか。私は、そうは思えない。そうできないからこそ、人間なのではないだろうか。それとも、私が「信念」を持っていないために言える戯れ言なのだろうか。そのどちらにしても、乙松は苦しんでいた。涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに喚呼の声を絞らなければならないことに。
 そんな彼に、救いの手がさしのばされた。それは、彼の死んだ娘の雪子の登場であった。雪子が現れたことで、乙松は押さえていた感情をさらけだした。彼は苦しみから解放されたのだ。一方の雪子も彼を恨むのでなく、彼の「信念」を、生き様を理解していた。それどころか、自分が早くに死んだために父親が苦しんだことを詫びた。私は、そこに家族の愛を見つけた。家族の愛と一言でいっても、薄っぺらいものではなく、本当の家族愛だ。では、本当の家族愛とは何かと尋ねられると、容易に答えることができない。しかし、私は家族愛は家庭によって様々な形があると思う。
 ここでの家族愛は、乙松が自分の「信念」を貫き通したこと、また、妻や雪子が彼の「信念」を理解していたことだ。もし乙松が、雪子を失った悲しみからポッポヤをやめていたら…それは自分を甘やかすことで、決して雪子を想い詫びることにはならなかっただろう。だからこそ、乙松は、精一杯自分を貫いて生き、その中でも家族に対する感謝の気持ちを忘れなかったのだ。また、妻もその気持ちを理解していたから、黙っていたのだろう。私はこの家族愛を前に、どこか空虚な現代社会の家族関係に疑問を持たずにはいられなかった。
 何も、現代社会の家族に愛がないと言うのではない。私たちが、家族愛だと信じているものは、本当にお互いのことを想ってのものだろうか。必ずしもそうではないと思う。現に、よく親が子供に「あなたのため」というのを耳にするが、それが本当に子供のための発言であることは少ない。だいたい、その言葉を口にすることからして何か間違っていると思う。ただ、子供を自分の言動の理由にしているにすぎないのではないだろうか。このようなところから、現代社会に小さな歪みが生じてきているのだと私は考えている。
 私が、乙松をうらやましく感じるのは、彼が「信念」を死ぬまで貫いたからだけではない。彼の周りに愛があったからだ。彼の人生は、端から見たら仕事一筋で何も楽しみのない人生、いいことや嬉しいことよりも辛く悲しいことの方が多い人生だった。だが、そこに「愛」と「信念」がある限り、その二つを見失いかけている私たちには、彼の人生がうらやましく感じられるのだと思う。けれど、私は今まで自分の人生を不幸だと思ったことはない。また、反対に心から幸せだと感じたこともない。それはきっと、私がそこまで真剣に生きていないからだと思う。だからこそ、乙松が「信念」を持って苦しみながら生きているのを見て、自分を抜けがらのように感じたのだ。
 しかし、私には乙松のような生き方をする自信がない。時代が変わってゆくなか、人が変わらないということは不可能にも思えるからだ。あるいはこうも言えるかもしれない。時代の変化がもたらす諸問題に対応しなければならない私たちは、乙松の生き方にひかれはするが、彼のように生きるわけにはいかないと。私には「ーとして」生きるものはない。しかし、決して時代に流されるのではなく、私は自分の信じることを胸に精一杯生きていこうと思う。そして、そうすればきっと自分を理解してくれる人が現れるだろう。家族、あるいは家族をも越えた強い絆が生まれてくるはずである。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]
鉄道員(ぽっぽや) (集英社文庫) [ 浅田次郎 ]
価格:518円(税込、送料無料) (2019/8/27時点)