2019/08/27

『肝臓先生』(坂口安吾 )を読んで【高校生用】

 『肝臓先生」――この題名を初めて見たとき、私はこの物語が肝臓先生という後世に言い伝えられる程立派で学ぶところの多い先生が主人公の物語だろうと思った。しかし、読み終えた後、一体誰が主人公であるのか、私にはよくわからなくなってしまった。「私」とあるのだから、烏賊虎さんを訪ね、肝臓先生についての話を聞いた「私」こそ主人公だと考える人もいるだろうし、私もそれを否定する気はない。しかし私はあえて、まだ主人公はいるのだと言い張りたい。まず「肝臓先生」。題名にもなっている程だから容易に察しがつくだろう。しかし、それにも増して、私が「もう一人の主人公」として注目したいのは「漁師町の人々」なのである。どうしてだろう。この物語を読み終えた今、私の中には肝臓先生と同じぐらい強くはっきりと漁師町の人々の残像が残っているのだ。このことを考えるうえで私はまず「肝臓先生」と「漁師町の人々」のつながりを考えてみた。
 まず赤城先生、人呼んで「肝臓先生」は、ある時から診断する患者のほとんど全員が肝臓炎を患っていることに気付き、はじめは大変悩んだ。この肝臓炎を研究し、その真相をつきとめるべきか。このとき彼の中には、研究の成果によって一人でも多くの患者を救いたいということだけでなく、少なからずとも今まで町医者として毎日毎日変わらず町の人々を診てきた自分が輝かしい研究成果を公表する姿があったはずだ。しかし彼はやはり自分の進むべき道を見失わなかった。人はどうしても地位や名誉のある道を選びたくなる。けれども、いつも(自分がこの世ですべき役割は何なのか。)ということを心に留めて行動することを忘れてはならないのだ。そう彼が教えてくれた気がする。
 一方、漁師町の人々はというと、彼らは、なんの怒号も劇的な動作もなく、日々変化もなく平々凡々と生きている。皆が漁師だから、当然俗世の名声などには興味がない。唯一の例外が、漁業においての武勇伝がその一家、そして子孫にまで伝えられていくことぐらいなのである。
 そんな漁師町の人々がなぜ肝臓先生を崇拝するかというと、それは自分達を救ってくれたからではなく、彼の存在自体が町中、いや彼の生き様を知る全ての人に、あるものを与えてくれたからだと思う。彼が残してくれた「地位や名誉のあることだけが人のすべきことではない。一番大切なのは、自分の"この世の中での役割"を見つけ、見失うことなく果たすことなんだ」という素晴らしいメッセージが、名声などとは縁遠い、彼らの平凡な暮らしに意義を与えてくれたのだろう。
 この物語で、もう一つのキーポイントとなるのは「伊藤市」というまちではないだろうか。一見単なる舞台であるように思われるどこにでもありそうな市であるが、この市の存在自体が私に疑問を投げかけているよに思えて仕方がない。平和なあたたかい町である漁師町と俗世の評価を大事に大騒ぎをしている温泉町。この全く性格の異なる町同士が隣り合い、ひとつの市を形成し、そして調和している。これはなぜなのであろうか。
 私は決して、名声を大事とする生き方もきちんと認めるべきだと言っているのではないが、これも"役割"なのではないだろうか。毎日変わらず漁に出かけ、おいしい魚をたくさん獲り、陰で人々を支えている漁師町の人々。よそから来る温泉客をあたたかく迎え入れ、いつも賑やかに騒いでいる温泉町。このどちらが欠けても伊藤市は成り立たないのである。
 そう、この物語は、世の中の皆それぞれが『この世』という巨大なかたまりの中の一つのパーツなのだ。ということを私に教えてくれたのだ。それぞれ全部違った形をしていて、一つでもなくなるとうまくいかない。目立つ部分で働いているものもあれば、縁の下の力持ちとして皆を支えているパーツもあるのだ。
 私はどこのパーツなのだろう。何の役割を果たす為にこの世に生まれてきたのだろう。きっとその答えはなく、私たちが自分自身で見つけるものなのだろう。星の数ほどある選択肢から自分の一番好きな道を選ぶ。それこそ、この地球上でたった一つしかない自分にぴったりのパーツなのだろう。私には、ささやかだけれども、どうしても叶えたい夢がある。"夢"というと自分本位に聞こえるけれども、それが私の好きなことであると同時に、私にしかできない大切な役割だとしたら、なんて素晴らしいことだろう。
 「将来どんな仕事をしたい?」と聞かれると「人の役に立つ仕事がしたい。」と答える人は多い。しかし、自分の好きな仕事こそ、自分にとって最高の仕事であるだけでなく、最も人の役に立つ、その人にしかできない仕事に違いないのだ。