2019/08/26

『それから』(夏目漱石)を読んで【高校生用】

 「無為自然」という言葉は、果たして現実世界で成立し得るだろうか。赤ちゃんに限ってのみ成り立つと言っていいだろう。いつの間にか高校生になり、すっかり愛想笑いが上手くなった私は、衝突を避け流れに身を任せることで精神の省エネと合理化を図り始めた。大学に合格するために勉強する。そんな方針は馬鹿げていると思いながらも、敷かれたレールから逸れまいと必死な自分に、どこか矛盾と空しさを感じることもある。
 そこへ、生活のための労働は誠実ではないという代助の言葉。冬の朝に顔を洗う冷水のように、それは私の脳に刺激的であった。生活のために働くということは、生活の糧を得ることが趣旨であって、労働そのものの内容や方向は全て糧を効率良く得るために統制される。すなわちそれは神聖とは言えないと代助は言った。私は大いにその説に賛同した。誰かに今の自分を戒めてほしかったのだ。勉強するのは好きだが、その内容は大学進学という結果を越えたものでなければいけない。私はまったく味方を得た気分である。別の目的のために何かをするということは、その行動に対して失礼なのである。その時間に対して無責任なのである。ひいては、今を生きる自分自身に対して無関心の状態である。私たちは限りある生命で「今」を食いつぶし続けて生きている。私たちが感じ得るのは今この瞬間の喜び、驚き、絶望だけである。勉強するために勉強し、生きるために生きるのでなければ、今現在進行している私の命を無駄にしてしまう。それが「無為自然」実現のための一要素ではないのか。
 私はこんなことを考えて、表面的な自分の生活を蔑むことで楽しんだ。代助もきっと同じだったのだ。己の理想を正統化・神聖化することで、自分はなんて深みのある人間なんだと酔いしれる。そんなことをするのは自己実現の努力をしない恵まれた甘えん坊だけだと、私は後から気付くのだが。
 しかし代助は変わり始める。代助には大切な人がいた。その人を不幸な境遇から救いたいと願った。しかしその女性は親友の妻である。代助は言葉にならない苦悩の渦へ陥る。金を工面してもらえないかと言われても、代助は無職の遊び人。女性の前では俺に任せろと言うことができても、その資金の調達先は父や兄である。代助の心の中に湧き上がる、自身の生活力の無さに対するいらだち。その点については私も無能力と言える現状なので、代助の焦りが生々しく迫って来た。今まで通り親から金をもらうには、親の言う通りにしなければならない。政略結婚に身を任せるか、親友の妻を奪って家族と絶縁するか。人生はいつも私たちに恐ろしい選択を強要する。どちらをとっても必ず苦しみが待っているという残酷さ。何も欲しがらなければ苦しまなくて済むのに。ただ流れるままに生きていれば、後悔などしなくていいのに。
 でも代助は本当に親友の妻である三千代を愛していた。いつもの代助ならまあいいか、で終わらせるところを、三千代のことだけは諦められなかった。代助は初めて、心の底から欲しいものに出会ったのだ。三千代への愛は、普段の代助の精神を奪い、代助を逆境へと駆りたてた。複雑にからまりほどけそうもないような想いを、ただ一直線に女に差し出す代助。その姿は、今までの理屈をこねるだけの代助とはかけ離れ、輝いていた。こんなにも純粋な行動が他にあるだろうか。と思うと同時に、私はこれまでの自分の思い違いに気付く。人は、何か物質的な、または精神的なものを切に欲しがった時初めて、本来の底力を発揮できるものなのだ、と。働くために働き、生きるために生きる。それはとても美しいし、やはり私の目指すところではある。しかしあまりにも綺麗すぎて、どうしても手に入れたいという醜く切なる願望のもたらすパワーを失ってしまう。代助は三千代を勝ち得た代償として、家族からの資金援助を絶たれ、交流も絶たれた。今までの生活を全て捨て去る覚悟を持ってこそ、未来を手に入れるチャンスが与えられるのだ。私には、そこまでして欲しいものがない。だから何をしても無機質で、面白味がない。敷かれたレールで運ばれて行くか、自ら道をかき分けて進んで行くかは、私さえその気であれば、選ぶことができたのだ。いや、これからだってできるのだ、目標があれば。
 代助はこれから波乱の人生を歩んで行くこととなる。職を求め、社会の逆風に立ち向かって前進するうえで、彼の道徳に反する行為を迫られることもあるかもしれない。それでも彼はきっと選択し、やり遂げるだろう。自分の欲しいもの、守りたいもののために。それでいいのだと思える私がいる。「無為自然」でいるよりも、私は何かを成したい。代助にとっての三千代であり、私がまだ見つけていないもの、今の自分を全身全霊注ぎ込めるような目標を見つけ、追い求めていきたい。
 
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