2019/08/26

『佐賀のがばいばあちゃん』(島田洋七)を読んで【中学生用】

 「がばいばあちゃん」の「がばい」とは、佐賀弁で「すごい」という意味だそうだ。だから、初めは単純に、食べる事にも困るほどの貧乏な生活をしていながら、それをものともせず明るく笑いとばして、預かった孫を育てあげた、「すごい」おばあちゃんの話なんだと思っていた。「お金がない生活イコール不幸」と決めつけないで、知恵を働かせて工夫していけば、そして、諦めず、前向きな強い心を持っていれば、それなりに明るく幸せに生きていけると教えているのだと。
 でも、僕にはどうしても心にひっかかることがひとつあった。それは、母親の元を引き離されて連れて来られた昭広少年に、何年ぶりかで会った時のおばあちゃんの態度である。もし、僕のおばあちゃんだったら、
「よく来たね。のど渇いていない。何か食べる。」
とか言って、ニコニコともてなしてくれると思う。しかし、このおばあちゃんは、昭広少年に優しい言葉をかけるでもなく、いきなり、ごはんを炊く方法を教え込んだのである。けっこう冷たいおばあちゃんなのかな、本心は迷惑に思っているのかな、とちょっと心配になった。でも、ふと思い出したのだが、いつかお母さんが、おばあちゃんに、
「こんな悪い点を取ったんよ。」
と、言った時、
「いい時もあれば、悪い時だってあるよ。博くんはがんばり屋さんだから、大丈夫よ。」
と僕の味方をしてくれたので、僕も調子に乗って、
「ホント、お母さんはいつもこれ。おばあちゃんみたいに誉めてくれたら、僕もやる気が出るのに。」
と言い返した。その時、おばあちゃんが、
「おばあちゃんは博くんに優しくしていればいいけれど、お母さんというのは、責任があるから、厳しいことを言うもんよ。」
と、答えたのだ。これを思い出した時、がばいばあちゃんは昭広少年を預かることになった時、「お母さん」になったのではないかと思った。孫に対して優しいおばあちゃんとして接するだけではすまない厳しい現実を前にして、昭広少年を立派に育て上げる覚悟を決めたのだと思う。と同時に、昭広少年にもその覚悟を分からせるために、いきなりごはんを炊く仕事を与えたのだろう。
 つらかっただろうなと思う。住む家もみすぼらしく、お米のない時だってある。育ち盛りの孫に腹いっぱい食べさせてやることも、ほしがるものを買い与えてやることもできない生活。がばいばあちゃんは心の中で泣いていただろうと思う。そう考えた時、がばいばあちゃんの本当のすごさが見えてきたように感じた。
 まず、貧乏であることを受けとめさせたこと。貧乏はつらいけど、知恵をしぼり工夫をこらして生活することを教えたのだ。しかも、悲愴感を漂わせながらではなく、明るさを失わせることなく暮らしたのである。その結果、昭広少年は、ただ人をうらやましがるだけの少年にもならず、またひねくれることもなく成長したのだと思う。
 また、我慢する心も植えつけた。剣道や柔道を習いたがった時も、その道具代を出してやれないばあちゃんは、走れ、それも裸足で走れと勧める。そこで投げやりにならず、校庭をもくもくと走り続けた昭広少年は、やがて学校一の俊足になる。それが生かされて中学校の野球部で活躍する選手となり、その実力が認められて高校進学も果たす。我慢して努力した結果だと思う。
 夢と希望を失わせなかったことも、がばいばあちゃんのすごいところだと思う。成績が悪くても「人生は総合力、足せば五になる。」と言ってくれる人がいたので、劣等感を持つこともなく野球に打ち込み、道を切り開けたのだと思う。昭広少年はがばいばあちゃんの、できないことも認めてくれる広い心がありがたかったにちがいない。
 「気づかせずにするのが、本当の優しさ」と気づかせた話には、心から感動した。運動会当日、母の応援もなく、粗末な弁当を一人で食べる昭広少年の寂しさを思いやり、腹痛と偽って、自分の弁当を食べさせた先生のさり気ない優しさが僕の心にも浸みた。
 お金があることだけが幸せではない。知恵を働かせ、工夫をこらし、ユーモアの心を忘れずに前向きに生きていく。我慢することを教えながらも、決して希望を失わせない。長所も短所も丸ごと受け止め認めてやる。厳しい境遇の者を笑いものにせず、かくれてそっと助けてやる優しさを持つ。これらはどれも、今の僕たちが忘れていたり、失ってしまっているものばかりではないか、と思った。恵まれた生活に慣れてしまって、こういう大切な心を見失ってきている僕たち……。そんな僕たちは、多くの大切なことをがばいばあちゃんに教えてもらったと思う。
 
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