簡単に考えるなら、それは彼自身がいうように「本質的に楽天的な人間」であったからだ。しかし本当はそれだけではないと僕は思う。直子さんのいる療養所を訪ねに行ったとき、彼は初対面のレイコさんから、心を「開こうと思えば開ける人」と言われている。開くとどうなるんですか、と尋ねる彼に彼女は「回復するのよ」と答えている。キズキ君の死んだ夜から、何もかもが死を中心にして回転していたという彼が、最終的に生き続ける方を選んだというのを「回復」とするなら、「心を開く」ことは、ほうっておくと過去や死の世界へずるずると引き込まれていく自分を抑え、現実の世界と関わり未来志向で生きること、その勇気を持つことと言い換えられるのではないか。
では何故彼は「心を開く」気になったのか。彼が死に近かった理由は「孤独」だと僕は思う。高校時代、彼には友達がほとんどおらず、また作ろうともしなかったようだ。そんなことしてもがっかりするだけだからと彼は言っているが、僕にはその気持が何となくわかる。あの人なら自分を理解してくれるのではと思った人のところへ行って話をしてみてもやっぱり違う、とか友達づきあいをしているうちに、当初は理想の友人と思われた人から、自分には理解できない、我慢ならない言動が飛び出してきた、とかそういうことを何回か重ねていくうちに友達づくりへの期待がしぼんでしまったのだろう。実は、これは僕自身の体験なのだが、ワタナベ君もきっとそうだったのだ。自分の個性や価値観といったものが、世の中で多数派のものと異なっているのだろう。
それでも、僕には話を聞いてくれる人がまわりに沢山いる。だから何ともない。ワタナベ君にはひとりしかいなかった。「唯一の友人」 キズキ君である。でも彼は自殺してしまった。理解しあえる人が一人もいない世界。僕には想像がつかないが、たぶんそれは絶海の孤島に一人取りされるよりもずっと孤独なものだろう。なぜなら、まわりじゅうを「わかりあえない人達」に囲まれているからだ。
そんなひどい孤独の中から彼を救い、「心を開く」気にさせたのは「緑さん」の存在だったと僕は思う。二人は大学が同じで知り合ったのだが、とにかくこの二人のやりとりは読んでいて本当におかしかった。引用していたらきりがない。まるで緑さんがボケ役、ワタナベ君がツッコミ役のコントみたいだった。
緑さんは可愛らしくてスタイルも良い、名門女子高出の人である。おっとりとしたお嬢様を想像するが、本人が「どうしてもシックになれないの」という通り、あまり上品ではない。考えることが少し普通と違う。そのうえ想像力がものすごいので、いつもとんでもないことをワタナベ君に尋ねる。たぶんそんなときの彼女の目はらんらんと輝いているのだろう。ワタナベ君はたいてい、半分呆れたようにちょっと返事をするだけなのだが、心の中では、からっとしていて、前向きで、表情が豊かで、自分に正直な彼女に好感を持っていたに違いない。実際、緑さんが前の彼氏と別かれてワタナベ君にプロポーズしたときには、ワタナベ君も緑さんのことを、直子さんと同じくらい好きになっていたのだ。
後に、彼はそれがもとで苦しんだが、この苦しみは、彼の「生き方の変化」にともなう苦しみだと僕は思う。緑さんと出会い、その健康的な生き方に憧れる。自分の新しい生き方はこれだと思う。彼女を好きになる。でも鋭く繊細で、完全な美しさを持つ直子さんも、やはり好きだ。今にもこわれてしまいそうな彼女を守りながら、ずっと一緒に生きていたい。彼は二つの違った生き方のはざまで、二人の違った生き方をした女性に恋していたのだ。そして、結果的には直子さんは自殺し、ワタナベ君は「世界中に君以外に求めるものは何もない」と緑さんにはっきりと言った。彼は過去は過去として、緑さんと幸せになると心に決めたのである。退廃的な美しさに満ちた十代の少年をやめて現実を見つめ、頭のねじを巻きなおし、自分に正直に生きることにしたのである。ワタナベ君自身が「生きつづけるための代償」と呼ぶこれらのことこそ、「心を開く」ことだと言えるだろう。
僕や僕のまわりの世界とは少し違うところの話だったので、共感することよりも推察することの方が多かった、というのが今の正直な感想だ。けれども、価値観の多様化が進んでいるといわれる現代の社会のなか、ワタナベ君のような孤独を感じる人はこれからもどんどん増えていくのではないだろうか。とすればこの作品は今後もずっと読み継がれていくだろう。そしていつか孤独が辛くなったとき、僕もきっとこの作品を読み返すだろう。