2019/08/27

『清兵衛と瓢箪』(志賀直哉)を読んで【高校生用】

 物の価値は、一体どこにあるのだろうか。見かけ、値段、希少性。それらのどれもが、価値を計るに満たないものばかりだ。価値や本質は、個々人の価値観によってつくられている。それを計るのに一般論は役に立たないだろう。価値を探る「目」。それを持っているということは、ある種の能力といえるかもしれない。清兵衛――彼はその希な能力のために自滅してしまったのだ。
 瓢箪――古瓢ではなく、まだ青くて皮つきのものに、十二歳の少年はとりつかれた。何故瓢箪なのか、私は疑問に思った。もっと少年らしいものに熱中すればいいのに、ただの普通の瓢箪。思えばそもそも、これが彼の能力であり異質な才能であったのだ。
 瓢箪の手入れをし、屋台の一つから飛び出た、爺さんの禿頭を瓢箪だと思って眺めていたりと、終始瓢箪に明け暮れる日々。それは充実し、かつ危険な日々だと思う。熱中のしすぎは周囲を見えなくさせるからだ。
 私にもかつて熱中したものがあった。それだけに清兵衛の境遇が痛いほど分かる。理解しようとしない父や教師、強い反発、そして再びのめり込んでゆく自分。周囲の見えなくなった自分をどうして止められるだろうか。しかし運命とは、常に一般論的だ。清兵衛の瓢箪を「価値なし」と判断した彼の父は、瓢箪をげんのうでたたき割ってしまった。この事実を清兵衛は受けとめられただろうか。彼の熱意、努力――それらの結晶である瓢箪。目の前でつぶされる自分のいわば「分身」を見た彼の心は、ぽっかりと穴があいていたに違いない。
 清兵衛の瓢箪に対する思いを無視し、軽んじる大人達に、私は反感を覚えた。物の価値は個々人それぞれであるからこそ面白いと思う。それを否定するのは、人間性の画一化をはかるようなものだろう。
 瓢箪は、清兵衛の内面の具象物ではないだろうか。人の内面ははかりきれない。それゆえ、目に見える形となって自分自身の心を満たす。そんな自分の具象を、誰にも理解されず、清兵衛はどれほど悲しく思っただろうか。私は小学生のころ、牛乳のフタをあつめていた。色とりどりで個性があった。少なくとも、当時の私にとってそれは充分すぎる魅力を持っていた。
 しかし周囲の大人達は、つまらないから捨てろと言った。何がつまらないものか、と思っていたが、結局は親に捨てられた。その時私は半分だけかくしておいた。せめてこの努力の結果を、記念としてでも残したかったのか。それとも「半分ある」という、ただの自己満足や自己欺瞞のためだったのか。
 隠した半分は、いつのまにやらなくなっていた。親にみつかったのか、自分で捨てたのか思い出せない。だが、なくなっていた時に私は悲しんだ気はしない。これでよかったのだ。熱中したものは、人を成長させると役目を終えるのだから。
 清兵衛の瓢箪も同じだ。彼の瓢箪は割られ、彼を一まわり大きく成長させた。彼は瓢箪を割った父を恨んでいるだろうか。私はそうは思わない。清兵衛には瓢箪の「役目」が分かっていたはずだから。
 私も清兵衛も、今は別なものに熱中している。かつて熱中したものと同じくらい。結局、人に必要なのは熱中できる「何か」だったのだ。それはもろく崩れやすいが、確実に人を成長させてくれる。
 人には熱中できる「何か」が必要だ。熱中することに生きがいを感じ、活力を得る。人それぞれ「何か」は違っても、それにかたむける努力や熱意は変わらない。熱中することは、実に生き生きとした自分を表現できる。 いわば、言葉ではない言葉で自分を語るようなものだ。
 ところが、他人は外見を気にして、本人が熱中しているものを否定しようとする。もっと将来の役に立つもの、他人様が見ても恥ずかしくないものをと押しつける。だがそれを決める基準があるだろうか。ありはしない。仮に基準があり、皆それにならったとしたら、なんと味気ないことだろう。
 清兵衛は人よりも純粋な心が多かった。瓢箪にひたむきに熱中する彼は、とても輝いていたに違いない。自分の道を黙々と歩み、障害を乗り越えた彼に、私はいつの間にか感情を移入し、拍手を送っていた。
 現代に生きる私達は、他人を気にしすぎるあまり、自分の内面を見失いがちだ。清兵衛は私達に熱中することの大切さを教えてくれる。熱中する彼の姿は、どこか冷めた現代への警鐘だと私は思う。人はもっと熱中して成長しなければならない。
 現代には清兵衛がたりない――。

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