2019/08/27

『沈黙』(遠藤周作)を読んで【高校生用】

 私はなにも信じてはいない。神も、仏も、信じていない。否、信じられない。
 毎朝、曖昧な頭で新聞を手にとる。新しい紙の匂いと共に、今日もまた、凄惨な事件がこれでもか、と言うほど記事になっている。恐喝、強盗、通り魔、殺人。勿論事故もあるけれど、犯罪の数の方がそれを遥かに上回っている。それだけではない。今、この瞬間も世界のあちこちで、「戦争」と銘うった大量殺戮が行われ、尊い命が散っている。しかも、そこで幾ら人を殺そうと、誰にも罰せられはしないのである。また直接争いに関与していない人でも、「鎮圧」の名のもとに殺されたり、仕掛けられた地雷を踏んで亡くなる事がある。以前、地雷に関する書籍を読んで様々な種類がある事を知った。たった三百円で造れるオモチャ型地雷、子供までターゲットにした殺戮さえ存在する。何故?何のために?私の貧困なボキャブラリーではこの憤りを言い尽くす事など到底叶わない。
 だが、そんな罪なき人々が理不尽に殺されてゆく時でさえ、多くの人が信じているもの、それが神であれ、仏であれ、誰も救ってくれはしない。いつだって遥か高みから沈黙を守ったまま、死んでゆく人々を「見守って」いるだけだ。それは「見殺し」と言いかえられるのではないだろうか、と、長年思い続けていた。
 主人公、セバスチャン・ロドリゴも獄中で同じ事を考えた。信徒達や同僚ガルペが殺される場面に直面させられながら、殉教とは、信仰とは、神とは何かを考え続けた。やがて彼はかつてのフェレイラ師…沢野忠庵の説得により、彼の一つの答えとも言うべき決断をする。そこに迷いはなく、ただ痛みのみが存在するだけだった。そして彼は悟り、涙を流すのだ。穴吊りにかけられた信者達の事について。日本の基督教について。己の弱さ、それを直視することの痛さ。そして、神の沈黙について。
 背教をしたロドリゴ、いや、せざるをえなかった彼の心理に触れた時、頭を殴られたような衝撃を受けた。私もロドリゴと同じではないか!安寧の広がる日常に、少しの疑問と反抗をスパイスにして生きてる私。不条理に対してただ憤るばかりで何も行動していない今の自分。クーラーのきいた部屋でニュースを見、遠く離れたイラクの情勢に憤慨していただけ。そんな人間に一体何が出来ようか。それを自覚するのは酷く痛かった。フェレイラの痛み、ロドリゴの痛み。「痛感」というものはこれを言うのだと初めて理解した。本を閉じればすぐにこの痛みから逃れられるはずだったが、そうする事が出来ない何か特別な衝動にかられて読み続けた。ロドリゴは自分の、他人の全ての弱さを認め、愛し、包み込むようになる。弱き者、キチジローにさえ「行きなさい」と告げるその姿はまるでキリストのようだ。彼は背教して初めて彼の愛する者に一番近づけたのだと思う。
 私は神というものは全能だと思っていた。だがこれを読んで間違っていたことを理解した。神は「痛みを分かつ者」だった。そうすることで神は人々を救うのだ。だから彼は人々が死んでゆくのを止められない。皆にあがめられる神でさえ、人の生死を左右する事等できやしない。神は沈黙していたのでもなかった。救いは自分の弱さを認めた時はじめて与えられるものだった。
 死んで逝った人々を呼び返したい。ということはどういうことを表わすのだろう。当時の受難者達が彼らの目線で、今の私達の日常を見た場合、結構づくめの異常さの文明世界はどんな眺めに映るだろうか。かの時代の人々に、私達の精神世界はどう視えるだろうか。
 あの当時の日本人こそが、死をもって倫理の極みを超えてゆく、そんなひたむきに生きた人々の確かな足跡を創った。歴史や文学で知る彼らの生きざま、それを辿って往く道、代償も求めず痛みを超えて、崇高に紡いでくれた精神を共感する、そんな心の旅も悪くないなと今、思えてくる。
 夏の日射しに熱せられた生温かい風が、微かな音と共に私の横を走り去ってゆく。蝉は競うように歌声を響かせている。私は思う。この風のうなりは平和の事などではなく、世界の崩壊のうめき声ではなかろうか。一介の高校生に過ぎない私に出来る事はないのだろうか。第三次世界大戦ともいわれるこの戦いを終わらせるにはどうすればいいだろうか。それはもう、本当に止まらないのだろうか。いや、きっと出来るはずだ。人が死ぬのを止めるのは神には不可能だ。だが同じ「人間」ならば…可能だろう。すべての人が幸せになれる解決策を見付けるのはきっととても難しい。見付けられないかもしれない。でもどんな形であれ、何か答えはあるはずだ。
 本を閉じたら、まず、自分に出来る事を探しに行こう。痛みを超えて進むことが、救いとなるのだから。


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