2019/08/13

『舟を編む』(三浦しをん)を読んで【高校生用】

 「なにかを生みだすためには、言葉がいる。……生命が誕生するまえの海……混沌とし、ただ蠢くばかりだった濃厚な液体……ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。……言葉によって象られ、昏い海から浮かびあがってくる」――『舟を編む』の中で、最も気に入った一節である。「昏い海」とは、混沌とした人の感情であり、それに形を与え、互いの感情を共有するべく、生み出されたものが、言葉ではないだろうか。
 私は日本語が好きだ。私たちが日常的に、意思疎通のツールとして使っている言葉――だが日本語には、単なる言語を超えた魅力がある。たとえば雨の名前。『時雨』『夕立』『霧雨』……降る季節、時間、量によって、細かに名づけ分けられた呼称。繊細で濃やかで多彩で、なんてすばらしい言語なんだろう。
 辞書は、そんな日本語の世界で、迷子にならずに思いを言葉にするための、ナビゲーターだ。「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」――理想の辞書作りに賭してきた、荒木と松本先生の三十数年。「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。……もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原を前にたたずむはかないだろう」『海を渡るにふさわしい舟を編む』――こうして、まだ若い馬締を後継者に、新たなる理想の辞書、「大渡海」の編纂が始まるのだ。
 辞書という書物は、同じ出版物でも、雑誌や小説といった華やかな世界とは対極にある、地味な分野だ。編纂には、十数年単位という膨大な時間、莫大な費用がかかる。根気もいる。それでも、馬締をはじめとする玄武書房辞書編集部の面々は、周囲が危ういと感じるほど、言葉に耽溺し、辞書編纂にのめり込んだ。そこには、言葉への愛着、客観的で鋭い言語感覚、その両者が必要だ。辞書作りの大変さは、「言葉を、別の言葉で定義する」ところにあるだろう。言葉をわかりやすく定義するには、別の言葉が必要であり、突き詰めていくと、きりがない。どこかで区切りをつけねばならないが、その見極めが彼らを悩ませる。「あがる」と「のぼる」、「おませ」と「おしゃま」など、類義語の微妙な違いは何か、またその違いを、限られた字数内で明示するには――言葉が人間を翻弄するかのごとき、産みの苦しみ。だが馬締たちは、愚直に言葉と向き合い、あてどない作業にも屈することなく、渾身の一冊『大渡海』を編み上げたのだった。彼らを支え、突き動かしたのは、まさに言葉への愛と執念に他ならない。言葉の奥深さに魅せられ、『舟を編む』という理想に生涯を捧げた人々、その「愚直さ」こそが、何より美しく尊いと思う。
 これほどまではいかずとも、生涯をかけて夢中になれるものが、私にはあるだろうか。自分のすべてを賭して、やり遂げる価値のある一生涯の仕事が。己の信念に忠実であること、自分が本当に価値あると信じたものを、生涯かけて体現してゆくこと、目標が達成されるまで、粘り強く格闘し続ける熱意――この本を読んで、自分の理想の大人像が、ほんの少しではあるが、見えてきた気がする。
 もう一つ、印象に残ったことがある。それは、言語の持つ「政治的影響力」についてだ。外国では辞書を、国家が公的資金を費やして出版することがあるという。「自国語の辞書の編纂は、国家の威信をかけてなされるべきだ」――民族のアイデンティティのひとつである言語の統一・掌握が、国民の思想の統一・掌握につながる、という側面。驚愕だった。言葉が、人々の「生きた思いを伝える」ためではなく、「権威づけや支配の道具」として使われるという事実。だが、松本先生は言う。「言葉は、言葉が生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです」――その通りだと思う。だとしたら、外国と違い、辞書の編纂が各出版社に委ねられている、言語が権力とは無縁のところで自由に存在している日本こそ、「言論・思想の自由」という理念にかなっているのではないだろうか。「『大渡海』が、自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟になるように」という先生の願いが、改めて胸に響いた。
 近年のグローバル化に伴い、英語学習や国際交流がクローズアップされる中、日本語は何かと疎かにされがちのように思う。人々の思いが凝縮された辞書が存在し、「言語の自由」が守られている我が国で、その日本語が蔑ろにされている風潮を感じるのだ。だが、国際志向が高まり、異文化が混在する今だからこそ、母国語たる日本語を大切にすべきではないか。日本語は、私たち日本人が日本人であることの証である。辞書一つに、こんなにも奥深い世界がある。幾多の人々の情熱と研究の結晶である辞書を、もっと大切に扱い、日常的に活用したい。言葉を慈しみ、その可能性を知り、自らのアイデンティティの根幹である日本語を大切にしたいと、心から思う。

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