2019/08/13

『地獄変』(芥川龍之介)を読んで【高校生用】

 一言で言えば、残酷な物語である。己の愛娘が檳榔毛の車に乗せられ、紅蓮の炎に焼かれる様を眺め、それを「地獄絵図」の中に描いた絵師良秀。現実には到底有り得ない話だ。しかし、不思議と読後感は悪いものではなかった。それは、絵師良秀の「地獄絵図」に対するすさまじいまでの執着心、己の画業に対するこのうえない自負にすっかり心が奪われたためであろう。本来なら、己の描く絵のためなら、娘の命さえ犠牲にする良秀は、どのような厳しい非難にさらされても仕方のない立場である。しかし、そうはさせない魅力が良秀にはあるのだ。
 この「地獄変」という作品は、芥川龍之介によって大正二年に世に産み落とされた。古典の「宇治拾遺物語」の中に収められている「絵仏師良秀」がベースになっている。古典の中の良秀は、自分の家が火事になり、ただ一人逃げ出す。そして、妻子が逃げ遅れてまだ家の中にいるにも関わらず、家が激しく燃えさかる様を時々笑いながら眺めているのである。そして、その体験を生かして後世にまで伝わる「よぢり不動」の絵を残す。古典の中の良秀は、己の画業に固執する様子があまりにもさらりと描かれており、あまり残酷な印象を残さない。それに対して「地獄変」の良秀の芸道にかける意気込みは、作者の筆を借りて生き生きと描かれる。良秀は、ある時は弟子を耳木兎に襲わせ、またある時は裸にして細い鉄の鎖で後ろ手に縛り上げるといった暴挙に出る。しかし、何より不思議なのは、そのような非情な扱いを受けても尚、弟子たちが良秀の元を辞さないことだ。常識的に考えれば、良秀のように不気味で非人間的な師匠からは逃れたくなるのが普通なのではないだろうか。その、常識をさえ覆すほどの圧倒的な魅力が良秀とその作品にはあるのかもしれない。そして、それは古典の良秀と「地獄変」の良秀に見られる共通項だと言えよう。
 何かに打ちこむこと。それは、少なからず何らかの犠牲を生む。良秀は、絵のために愛娘の命、そして果ては己の命までも失うことになる。現代でも、ゴッホは自分が描いた自画像の左耳が似ていないと言われ、自ら耳を切り落としたという逸話が残っている。また、モネは愛する妻カミーユが臨終を迎える際にその刻々と変化していく顔色に心を奪われ、筆をとらずにはいられなかったという。そして、その結果モネは人物の顔の表情を描くことができなくなったそうだ。それ故、妻の死後描かれたモネの絵の人物には顔が描かれていない。しかし、私から見れば、その狂気とも言える芸術への情熱、己の画業に対する自負に対して羨望さえ抱かずにはいられない。
 私自身、中学校から始めたトランペット。吹奏楽への熱い思いは、誰に対しても胸を張って語ることができる。特に、中学校の三年間はまさに吹奏楽一色だった。毎日毎日、汗を流し、少しでも上達するように練習に魂を打ちこんだ。そして、上手に吹けた時は何より嬉しく、思い通りの音が出ない時は、人知れず悔し涙を流した。苦しいこと、辛いことも数え切れないほどあった。遊ぶ暇さえほとんどなかった。もちろん、私には良秀のように人の命を犠牲にすることなどできはしない。しかし、私自身、あれほど一つのことに打ちこみ、輝いていた時はない。だからこそ、芸術に対する異常な執念を見せる良秀にも共感を覚えてしまうのかもしれない。
 この作品の中に重要な位置を占める人物。それは、良秀に地獄絵図を描くように命じた大殿様である。彼なしにはこの作品は成立しない。良秀は、絵を描くために、車の中で女が炎と黒煙に攻められもだえ死ぬたと願い出る。それを快諾した大殿様は、良秀の娘をその車に乗せるのである。自分の意に沿わない娘に罰を与え、良秀をちょっと驚かせてやろう。おそらく大殿様は、ほんの悪戯心でそうしたのにちがいない。さすがに良秀も自分の娘を見殺しにはすまいと大殿様も踏んでいたのだろう。娘に対する意趣返し、良秀の性格を読み切れなかったこと。そうした大殿様の愚行が二人の尊い命を奪ったのだ。ここで私は、この作品の中で最も愚かで哀れなのは大殿様であると痛感せずにはいられなかった。
 古典の良秀には、後悔の念は微塵も感じられない。しかし、「地獄変」の良秀は絵の完成直後、自ら命を絶つ。猿ですら、人の恩を忘れず、娘と共に焼け死ぬ情を見せた。作者は、良秀を自害させることで良秀にも親としての情愛があることを示したのだろう。そうでなければ、この作品には全く救いがなくなってしまう。
 良秀が行ったのはおそらく地獄。そこで良秀は、自分の絵の通りだと大喜びしているかもしれない。「地獄変」は私に、「人生は地獄よりも地獄的である。」という芥川の名言を思い起こさせた。「地獄変」がもつ強烈な魅力。それは生涯私の心を捉え離さないだろう。


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