2019/07/25

「こころ」(夏目漱石)を読んで【中学生用】

 先生は、先生の友人と同じ人を愛してしまい、その人との結婚話がすすんでいることを、友人に知らすことが出来なかった。この話は自分だけを信じて自分だけに大切なことを打ち明けてくれた友人を裏切り、結局彼を死に追いやった、先生という人の一生涯の苦悩を描いた小説である。
 先生は人を傷つけることができない人であった。
「幸福な人間と言い切らないで、あるべきはず」と、先生は言ったという。
 他人の人生を犠牲にして手に入れた幸福はどんなに幸福に見えてもそれは本当の幸福にはなりきれない。それは”幸福であるべきはずのもの”でしかないということを教えているのである。そして、人を愛することができる先生は、愛する人だけが感じられる喜びも知っていた。
「恋の満足を味わっている人は、もっとあたたかい声を出すものです。
しかし…しかし、君、恋は罪悪ですよ。」
恋だけでなく、人生そのものも罪悪である。いいかえれば、人生の満足を味わっている人は人の幸福を見ても、もっとあたたかい瞳で見つめることができる。しかし、自分が不幸である間は、人の幸福を心から喜んであげることはできにくい。つまり先生のいうように、恋だけでなく、人生そのものが、人にとっては、罪悪なものかもしれないと思った。
 最後に先生の言葉に、「恋は、そうして、神聖なものですよ」と書いてある。神聖なものとは、罪悪に対して、善の世界と考えられるだろう。神聖なものと罪悪は、同居している。善を得ようとするときには必ず、同時に悪の道も通ってゆかなければならないのか。
 この本で得たことは、自分の中にある「こころ」と、「他人との愛情や思いやり」の、バランスの大切さである。
 人間として生まれたからには、同じ人を愛することは、あり得ることである。同じように一つしかないものを、大勢の人が、同時に欲しいと思うことだってあるはずだ。しかし、それを、他人に悪いと思って、後ずさりするか、あるいは、完全にそれを自分のものにしてしまうか、人の心の葛藤は、きっと、人と生まれたからには一生続くだろう。自分の心の欲するままに、突き進んで、欲しいものを手に入れて喜びに浸る。ところが、人間の本来の情の深さに気が付いて、自分のしたことを深く反省し、必要以上と思えるくらいに、人を傷つけたことを悩み続ける。これは、現代人には忘れられかけていることであるが、とても大切な人間の美しさではないかと思うのだ。そして、人の心が割切れないから、このような優柔不断な態度が、今でも有名な小説として、人間の生きていく問題として残っているのだと思う。 
 今の、そしてこれからの世の中に「人の心を思うこと」はとても少なくなってきた。こんな小説が人々の胸を打つことは、悲しいけれど少なくなるかもしれない。人の心を傷つけまいとして、物事に迷う瞬間「それは君の弱さだ。他人の事を気にしていたら、この世は渡っていけない。」と、人は言うこともある。しかし、この様な他人を思う心の動きと迷いこそ、大切なことのように思えて仕方がない。
 もう一つ注目したい「こころ。」それは、友人が、亡くなってしまってからの先生の、またしても、思いやりの心である。思いやりの心を無視すれば、先生は自分の犯した罪の償いを、なんなくやり遂げることができた。奥さんに告白し、つらい気持ちを二人で分けあい、罪滅ぼしとして、堂々と、精一杯、生きていくことができたのである。しかし、先生は優し過ぎた。それは、私達から考えれば、想像もできない、人間離れした、とさえ考えられる。が、決して、否定することのできない優しさだ。私がこの本の中で、一番理解できず、又、感動した部分が、次のところだ。
「もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻に懺悔の言葉を並べたなら、妻はうれし涙をこぼしても私の罪を許してくれるのにちがいないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものにひとしずくのインキでも容赦なくふりかけるのは、私にとってたいへん苦痛だったのだと解釈してください。」妻が信じて愛した自分が、妻の美しい心の中に、インクをまき散らすような人間であっては決してならない、という。最初に妻を、 友人から奪った激しい愛情に対して、なんという静かな、穏やかな、そして徹底した愛情であろう。そしてその愛のために先生は死の道を歩むのだった。私がこの本を初めて読んだのは小四の時だった。これから私の心の中でどのように変化して行くか、この本を大切にして行きたい。

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