2019/07/25

「友情」(武者小路実篤)を読んで【高校生用】

 「自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか。全く一人で。神よ助け給え。」
 人生誰にでもある挫折と絶望。この物語は一人物の絶望の句でそれを終わっている。その後、彼がどのように生きていったのか― 立ち直ったのか、世界の片隅でそのまま泣きながら過ごしたのか― には全く触れられていない。それまでの彼=野島=や、彼をめぐる者たちの心情は、現実的すぎる程細やかに描かれていたのに……。
 高名な脚本家を目指す野島が、友達である仲田の妹、杉子に恋をする。どこにでもある静かでほほえましい恋物語の設定だ。彼をめぐる人間関係の変化、そして杉子との触れあい。事態はもどかしい程少しずつしか進んでいないのに、彼らの感性の細やかさが、一つ一つほんのささやかな心の動き、発する言葉をほんのりとした色に包んでいる。
 しかし、恋は人間にとって厄介な心のゆらぎをもたらす。ありもしないジェラシーを感じたり、善人を憎んでしまったり、かえって相手を傷つけてしまったり、野島も例外ではなかった。そうして少しずつ自分を失ってゆく。その度に彼は杉子に新たな讃美を見出し、自分の誤った考えを訂正するのである。
 けれどもそのうちに、自分の中の悪夢も本当になってしまう。杉子は大宮に思いを寄せている。彼にとって最も信頼できる、最も尊敬する親友に。別に大宮が悪いわけではないとわかっているのに、自分の心のやり場を失った野島は、大宮をうらみ、自分を責める。
 最後まで冷静に物事の推移を見つめ、自分の考えに沿って判断を下して、上手く生きてゆく男と、情熱をもっていながら報われなかったことで自分一人で崩れ落ちる男。どちらが正しい生き方であるかは、二人の立場があまりにも違いすぎて判断できない。
 野島は杉子に恋し、杉子は大宮に思いを寄せる。しかし野島と大宮は大親友である。この耐え難いような状況の中で、大宮だけが一人、何らはっきりした考えを示していない。彼の本質的な強さが、普通の恋物語であったはずのこの出来事の流れに、特有の色彩を与えているのであろう。しかも彼は杉子に「野島を愛せ。」と言うのだ。
自分はある一人の女性に愛されているのに、その女性には自分の親友を愛せという。これ一つとってみても、彼が他人の考えを尊重しながらも、どんなに自分の考えも大切にしていたかが感じられる。
 もっとも、彼は自分の考えを尊重してはいるが、それは単に頑固であるという意味ではない、どの様な状況に対しても適応性のある柔軟な彼の考えは、常に真っすぐ発せられていても、決して他人の心を突き抜けたり、傷つけたりはしない。
 それを野島はよく知っていた。知っていたからこそ、彼はますます自分の心のやり場を失ってしまったのだろう。それだけ敏感であったからこそ、大宮という偉大な友を作り得たに違いない。しかし、結果的に彼は、自分自身のその敏感さによって知らず知らずのうちに、自己を傷つけてゆき、絶望して人生に後味の悪い事実を残してしまった。
 もしあの後、杉子と大宮が接近していったとしても、お互い距離を保ったままだとしても、彼は立ち直ることはできないと思う。もし絶望したままなら、彼は永く大宮の存在もしない罪状に文字を並べ続けてゆくだろう。そして生涯二度と心を触れあうこともなく、その閉じた人生を締めくくることになるのかもしれない。
 彼は杉子への恋を悔やみ、許しがたい自分を感じるだろうか。それとも、杉子への思いと自分の悲しみを織り混ぜつつ未練をひきずることになるのだろうか。彼のそれからの人生は、この選択に尽きると思う。悔やむようなら、新しい人生の出発点は見えてこないでもないが、後者を選択してしまうことになると、彼は永遠に大宮の耐え難い「友情」を心の中に縛りつけ、杉子にますます自分を喪失してゆくだろう。
 野島の恋の終わりから、涙の絶望まで、終始変わらないのは、親友大宮の冷静でゆるぎない友情だった。しかし彼は、それを友情として受け止めることができなくなってしまったのだった。
 「友情」というのは至極抽象的な言葉であるから、本当の意味での「友情」を定義することは難を極める。元来それは考えながらの人間関係に芽生えてくるようなものではないのだ。友情友情と唱えていたのでは、本当の友情が生まれるはずもない。
 野島と大宮の二人の間にあったものは、友情のように見えてはいたようだが、それは本当に二人の絆であり、友情であり得たのであろうか。

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