2019/08/02

「五体不満足」(乙武洋匡)を読んで【中学生用】

私が小学生のときのことだった。私は運動が苦手で、体育の授業はどうしても好きにはなれなかった。
 体育の授業でバスケットボールをしたとき私は、どうしてもボールがとれなくて、先生から、
「バスケットボールは、パスをもらうだけでなく、自分からボールをとりに行かないと、ゲームを楽しむことはできないぞ。」
と何度も言われた。
 中学校の体育の授業でやったバレーボールも、パスがなかなかうまくいかなくて、チームの人達から、
「何やってんだよ。なんであのボールを打つことができなかったんだ。」
と文句を言われる。
 私は中学校の部活を決めるとき、
「小学校のときに卓球クラブに入っていたから、卓球部に入りたい。」と自分からいったので、入部届の紙に、「卓球部」と書いて提出したのだ。
 ところが、卓球の練習をだれよりも熱心にやっているつもりなのに、他の人よりも上達する時間が二倍も三倍もかかってしまう。
 私は家族にこのことを相談した。そしたら、
「大輔は運動が苦手だから、他の人よりも上達がおくれるのではないか。」
といわれた。考えてみれば、どんなにまじめにやっても、運動が苦手な人は、他の人に差をつけられると思えてきた。
 私は運動が苦手だと思うと、
「こんな体があっても、運動が苦手だったら意味がない。運動なんかしてもムダだ。」
と何度も弱音をはいた。
 そんなときにおばあちゃんは、
「体に障害がある人は、何をするにも困ることがたくさんあるんだよ。大輔はちゃんとした体を持っているんだから、幸せじゃないか。」
そう言って、この「五体不満足」という本を私にすすめてくれた。
 私はその本を少しずつ読んだ。すると、「五体不満足」を書いた乙武洋匡さんは、人間には欠かせない手と足が生まれつきないそうだ。
 しかし、乙武洋匡さんはその障害をのりこえて、何でも熱心になる人だった。サッカー、野球、なわとび、運動会の五十メートル走、なども小学生のときにできたそうだ。私がこの場面を読んだときは、はっきり言って信じることができなかった。
 もし私が乙武洋匡さんだったら、サッカー、野球はもちろん、電動車いすからおりることもできなかったかもしれないし、いつも弱音をはいていたかもしれないからだ。
 私には手も足もついているし、障害もない。しかし、乙武洋匡さんは、手も足もなく、電動車いすを使って生活している。もし、今の私の体から手と足がとれたら、どうなってしまうだろうか。乙武洋匡さんのように、サッカーや野球、なわとび、五十メートル走などができるだろうかと考える。
 この本を読むことによって、手と足がちゃんとついていて、障害もなく、歩いたり、走ったり、目の前にある物を、ひょいと取ったりすることができる体を持っているということは、とても幸せなことだと思うようになる。
 私たちがいつも何気なく使っている手や足も、乙武洋匡さんのようにない人は、かわいそう、不幸な人、不便、と思われる。
 しかし乙武洋匡さんは、
「手も足もないと、不便だ。しかし、決して不幸ではない。」
と、言っている。障害は、人の心と体を強くするのだと思う。
 目が見えない人は、一ミリ位の小さな粒がいろいろな形に並んだ点字をさわって言葉を理解する。耳の不自由な人は、手を複雑に動かす手話を使って言葉を理解する。ベートーベンは、音楽家としてとても大切な耳が聞こえなくなっても、何曲も曲を作り現在に残している。
 このように、体にどんな障害を持っていても、「障害は不便だが不幸ではない。」と思う気持ちによって、耳が聞こえなくても作曲ができたり、目や耳が不自由でも、点字や手話で、ふつうの人のように、言葉を理解することができるようになるのだと思う。
 この本の最後にも、
「障害は不便だが、決して不幸ではない。」
と書かれている。
 この文を読んだときから私は、手も足もない乙武洋匡さんは、努力したから運動ができるようになったのに、手も足もある私が、何度も弱音をはくのはおかしいと思うようになった。もし、弱音をはきたいときがあったら、この「五体不満足」の本を思い出したい。

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