しかし、私がこの作品を読み終えて感じ取ったものは、「滅びゆく様の美しさ」ではなく、「復讐」というものだった。かず子は「恋と革命」のために生きていくことを決めるが、この「恋と革命」も、根底には「復讐」の心があるのである。かず子が上原との間に子どもを望んだことは、古い道徳に対する「復讐」であり、産んだ子どもを上原の妻に抱かせて、「これは、直治が、或る女のひとに内緒に生ませた子ですの」と言おうとするのも、上原に対する直治の「復讐」を、かず子が代わりに果たそうとしているということなのである。
最も印象的だったのは、蛇のエピソードである。かず子は、母が畏怖の情を持っている蛇の卵を焼いてしまい、母親の女蛇がその卵を探している様子を見て、この女蛇と自分の母はどこか似ていると感じた。そして、「私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろしていて醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食い殺してしまうのではなかろうか」という気持ちになるのである。私は最初、なぜこの時かず子がこんな気持ちになったのか、何度読んでもなかなか分からなかった。だが、「蛇」とは別に、「蝮」だけが邪悪なものとして書かれているのに注目すると、その理由が少しずつ分かって来た。
ここでの「蝮」は、罪悪感を表していたのである。つまり、「私の胸の中に住む蝮」というのは「かず子の中の罪悪感」ということになる。かず子は、蛇の卵を焼いてしまったことと、火事を起こしかけてしまったことから、罪悪感を抱いている。これを罪だととらえると大層なことにも聞こえるが、かず子にとって最も恐ろしい罪は、母を苦しませるということなのだ。この二つの出来事はかず子の母を弱らせ、命を薄くさせてしまった。自分のこうした行いのせいで、母はどんどん苦しむことになり、やがては死に追いやってしまうのではないか。かず子は恐らく、そう感じたに違いない。
そして、その罪の報いが、母自身の死という形でやって来たのだ。母が死を迎える数日前、縁側には、かず子に卵を焼かれた女蛇が再び現れていた。かず子は、蛇が現れたことをひどく恐怖し、母の死を覚悟し、さらに、これは「復讐」なのだと悟った。「蛇」は、「かず子の中の罪悪感」を表しているのと共に、「復讐」の象徴のようにも感じられた。
母の死によって、かず子は心の支柱を失ってしまった。かず子の罪には、蛇の卵を焼いたことや火事を起こしかけたことだけでなく、いつまでも母にべったりと甘えていて、自立をしようとしていないということも含まれていたのである。また、美しく上品な貴婦人である母のおかげで、かず子はかろうじて自分も貴族でいられるような気がしていた。だが、母の死によってそれも出来なくなってしまった。かず子は「復讐」を受けたことによって、母への依存も絶ち切らなければならなくなったのである。
罪を犯さずに生きていくことは難しい。ここで言う罪は、法的な意味の罪と言うより道徳的な意味の罪のことである。しかし、私が最も恐ろしいと思うのは、自分の中の「蝮」の存在に気付けないことである。かず子は、自分自身の中で首をもたげている「蝮」の存在を、きちんと意識している。私はどうなのだろうか?気付かないうちに誰かを傷つけて、なんの罪悪感も抱いていない、ということはないだろうか?最初、私はそう不安になったが、かず子のある姿を見て、安心することが出来た。
それは、かず子が、自分が母に対して発した言葉を反芻し、後悔して涙を流す姿である。「めっそうも無い事をつい口走って、あとでどうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまった」かず子の姿を想像すると、自分を見ているような気持ちになったのだ。私もしょっちゅう、母親とくだらないことで口喧嘩になり、その勢いで思ってもいないことを言ってしまったりする。そして、後から自分の言った言葉を思い返し、反省して泣いてしまったことが数え切れないほどある。母に会うのがなんだか怖くて、風呂場で髪を直したりしてぐずぐずしている様子まで私とそっくりで、思わず笑ってしまった。こうしたかず子と自分の共通点を見つけられたことで、私は自分の中に「罪悪感」という意識がきちんと存在していることを再確認でき、正直ほっとした。
自分で自分の中の「蝮」を食い殺してしまっては、一巻の終わりである。私は、私の胸の中にも住んでいる「蝮」と、今後も上手に付き合っていきたい。