犍陀多という男は、殺人、放火と極悪非道な事を繰り返した末に、 地獄へと落とされてしまう。地獄、天国というものが、本当に存在するのかどうかは、死んだ者にしか解らない。 しかし、私はもしかしたら本当にあるのではと思っている。いやそう思いたい。そんなもの絶対にあるわけがないと 否定してしまうと、何か夢のないつまらない人間になってしまう様な気がするからだ。しかし、罪人達が地獄へ落ち 、針の山、血の池などで苦しみ、もがいている姿を思い浮かべると私は、絶対に地獄なんかには行きたくない、絶対 に行ってなるものかと自分自身に言い聞かせた。
そんな暗闇の地獄で苦しむ犍陀多にとって、天から降りてきた、た った一本の蜘蛛の糸は、まさに救いの糸だったに違いない。それゆえに犍陀多は、「この苦しみから絶対に抜け出 してやるんだ。「これで極楽へ行けるんだ。」という喜びでいっぱいだったと思う。私がもしそんな場面に遭遇し たら、やはり同じ気持ちになっていたと思う。
お釈迦様は犍陀多に、蜘蛛を助けた時のあのやさしさがあることを 期待された。そして、それを確かめる為、犍陀多が必死で昇る蜘蛛の糸に、他の罪人達をあとからあとからどんどん昇らせていった。しかし、私はあの多くの罪人達は、お釈迦様が作りだした幻だったのではないかと思っている。私は犍陀多に「あの蜘蛛を助けた時のやさしさをとり戻してくれ!」と心の中で叫んだ。しかし彼は、そんなお釈迦様の願いを裏切ったのだ。「何故、他人への思いやりの気持ちが出せなかったんだ。」「何故、自分だけよければ他人の事など、どうでもいい。」なんて思ったんだという怒りがこみあげてきた。お釈迦様も私と同じ様に、犍陀多に裏切られた悲しみ、そして怒りから、蜘蛛の糸を断ち切られたのだと思う。私も口では偉そうに言っているが、蜘蛛を殺した行動から考えると、本当に自分がその立場に立たされれば、犍陀多と同じ運命をたどっていたのかも知れない。
そんな暗闇の地獄で苦しむ犍陀多にとって、天から降りてきた、た
お釈迦様は犍陀多に、蜘蛛を助けた時のあのやさしさがあることを
私はどうしても犍陀多に、無事天国へたどり着いてほしかった。し かし過ちをおかしてから、いくら後悔したってもう遅いのだ。「後悔先にたたず。」、まさにその通りに、健蛇多 はまっさかさまに、地獄へと落ちてしまう。
極悪人であった犍陀多にも蜘蛛を助けた様なやさしい気持ちがあ ったのに、どうして、いざという時にその気持ちが消えてしまったのだろう。やはり悪事を繰り返しているとやさしい心が、悪の心に勝てなくなってしまうのではという気がしてならない。つまりいざという時、日頃の行動や考え方 が、その結果を左右するといういい例なのかもしれない。私達の現在の生活を見ても同じ様な事が言えるのではないだろうか。
私は毎日電車通学をしているが、たまに若い男の人が足を大きく広 げ、ふんぞり返って座っているのを見かけることがある。小さい子供づれのお母さんがいても知らん顔で…。そん な時、とてつもなく腹が立つ。せめて子供だけには席をゆずってあげたらいいのにと思うのだが、注意するだけの勇 気がない。そんな自分がとても情けなく思う。
正義感があってもそれを実行する勇気のない私は、せめてあんな態 度、行動だけは、とりたくないと考えている。お互いが助け合い協力しあってこそ、素晴らしい社会が築けるものだ と信じているから。
私は今回この「蜘蛛の糸」から教えられた、「常に相手の気持ち を考えたやさしさ」を忘れず、お互いが気持ちよくそして楽しく生活出来るよう心掛けたいと考えている。決して、犍陀多と 同じ過ちを繰り返さないためにも..…。
極悪人であった犍陀多にも蜘蛛を助けた様なやさしい気持ちがあ
私は毎日電車通学をしているが、たまに若い男の人が足を大きく広
正義感があってもそれを実行する勇気のない私は、せめてあんな態
私は今回この「蜘蛛の糸」から教えられた、「常に相手の気持ち