2019/07/25

「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)を読んで【高校生用】

 蜘蛛の糸といえば、あの細く網目に張っている蜘蛛の巣が、すぐに思い浮かんできた。雨が降った後、巣に無数のしずくがつき、それが太陽に照らされて輝くすがたは、非常に美しく、心をなごまされる。しかし人間という生き物は勝手なもので、その美しい巣を作る蜘蛛自体の存在に対しては、気持ち悪いと言って、害虫扱いにしている。実際に私も、気持ち悪いと言って殺したことが何度かあるが、この作品を読み、犍陀多が、「こんな小さな蜘蛛にだって命はあるんだ。」と、殺すのを思いとどまった場面では、ドキッとした。もしかしたら私は、この極悪人の犍陀多よりも残酷な人間なのでは…。と胸が痛んだ。たかが蜘蛛の一匹や二匹殺した所でどうって事はない、そんな気持ちの方が強かった自分の心が、今から思うと、とてもなさけなく、腹が立ってしょうがなかった。
 犍陀多という男は、殺人、放火と極悪非道な事を繰り返した末に、地獄へと落とされてしまう。地獄、天国というものが、本当に存在するのかどうかは、死んだ者にしか解らない。しかし、私はもしかしたら本当にあるのではと思っている。いやそう思いたい。そんなもの絶対にあるわけがないと否定してしまうと、何か夢のないつまらない人間になってしまう様な気がするからだ。しかし、罪人達が地獄へ落ち、針の山、血の池などで苦しみ、もがいている姿を思い浮かべると私は、絶対に地獄なんかには行きたくない、絶対に行ってなるものかと自分自身に言い聞かせた。
 そんな暗闇の地獄で苦しむ犍陀多にとって、天から降りてきた、たった一本の蜘蛛の糸は、まさに救いの糸だったに違いない。それゆえに犍陀多は、「この苦しみから絶対に抜け出してやるんだ。「これで極楽へ行けるんだ。」という喜びでいっぱいだったと思う。私がもしそんな場面に遭遇したら、やはり同じ気持ちになっていたと思う。
 お釈迦様は犍陀多に、蜘蛛を助けた時のあのやさしさがあることを期待された。そして、それを確かめる為、犍陀多が必死で昇る蜘蛛の糸に、他の罪人達をあとからあとからどんどん昇らせていった。しかし、私はあの多くの罪人達は、お釈迦様が作りだした幻だったのではないかと思っている。私は犍陀多に「あの蜘蛛を助けた時のやさしさをとり戻してくれ!」と心の中で叫んだ。しかし彼は、そんなお釈迦様の願いを裏切ったのだ。「何故、他人への思いやりの気持ちが出せなかったんだ。」「何故、自分だけよければ他人の事など、どうでもいい。」なんて思ったんだという怒りがこみあげてきた。お釈迦様も私と同じ様に、犍陀多に裏切られた悲しみ、そして怒りから、蜘蛛の糸を断ち切られたのだと思う。私も口では偉そうに言っているが、蜘蛛を殺した行動から考えると、本当に自分がその立場に立たされれば、犍陀多と同じ運命をたどっていたのかも知れない。
 私はどうしても犍陀多に、無事天国へたどり着いてほしかった。しかし過ちをおかしてから、いくら後悔したってもう遅いのだ。「後悔先にたたず。」、まさにその通りに、健蛇多はまっさかさまに、地獄へと落ちてしまう。
 極悪人であった犍陀多にも蜘蛛を助けた様なやさしい気持ちがあったのに、どうして、いざという時にその気持ちが消えてしまったのだろう。やはり悪事を繰り返しているとやさしい心が、悪の心に勝てなくなってしまうのではという気がしてならない。つまりいざという時、日頃の行動や考え方が、その結果を左右するといういい例なのかもしれない。私達の現在の生活を見ても同じ様な事が言えるのではないだろうか。
 私は毎日電車通学をしているが、たまに若い男の人が足を大きく広げ、ふんぞり返って座っているのを見かけることがある。小さい子供づれのお母さんがいても知らん顔で…。そんな時、とてつもなく腹が立つ。せめて子供だけには席をゆずってあげたらいいのにと思うのだが、注意するだけの勇気がない。そんな自分がとても情けなく思う。
正義感があってもそれを実行する勇気のない私は、せめてあんな態度、行動だけは、とりたくないと考えている。お互いが助け合い協力しあってこそ、素晴らしい社会が築けるものだと信じているから。
 私は今回この「蜘蛛の糸」から教えられた、「常に相手の気持ちを考えたやさしさ」を忘れず、お互いが気持ちよくそして楽しく生活出来るよう心掛けたいと考えている。決して、犍陀多と同じ過ちを繰り返さないためにも..…。

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