2019/08/26

『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝)を読んで【中学生用】

 何かが、違う。でも、何が違うんだろう――。読みおわったとき、初めにこう思った。声に出して名文を読んだ、という充実感よりも、『日常会話内の言葉』と『名文の中の言葉』の心地良さの違いに、私はとまどっていた。
 二つの言葉の『違い』が知りたくて、私はもう一度、本を開いた。
 そこで私が考えたのは『本当に美しい日本語』とは何だろう?ということだった。
 『美しい日本語』。わたしはしばらく考えた。正直、分からなかった。が、その時ふと脳裏に以前授業で習った、『敬語』が思い浮かんだ。だとするならば、言葉遣いが正しければ、それは美しい日本語なのだろうか?
 この疑問を解く鍵は、本の中にあった。
 著者の齋藤氏は、川端康成の『雪国』などの文章によって、初めて美しい日本語とはどういうものかを知ったという。そして美しい日本語には、世界を官能的に捉える『身体感覚』が溶け込んでいると。
 つまり、『美しい日本語』というのは、その作者自らの感覚・感性で促えた思いを、自らの言葉で表した、『生きた言葉』なのだ。作者の心が込められた『生きた言葉』が人の心に輝きを与えた時、初めて人は『美しい言葉』だと思うことができるのだ。
 そしてもう一つ、齋藤氏は「昔の優れた言葉には『腰肚文化』が息づいている」という。
 『腰肚文化』という言葉を、私はこの時初めて知った。『腰肚文化』は狂言や能の礎になっているのだそうだ。狂言・能、私はこの二つをテレビでしか見たことがない。何だかすごく力強くて緊張感があった。しかし、優れた言葉と腰肚文化との接点がよく分からない。
 が、昔は『腰肚を据える』ことが狂言・能などの専門分野だけでなく、日々の生活の中にも息づいていたのだ。かつては腰や肚を中心に、自分の存在感を感じる文化がこの国にはあったと知った時、私は心から素敵だな、と感じた。体全体で楽しむ言葉。言葉を楽しんだ時に生まれる、自分の存在を美しく思う感覚。今まで体験したことがないだけに、力強く魂を揺さぶる言葉に、私は感動を覚えた。そして何より、私もそんな言葉を使えるようになりたい、そう思った。
 ここで私はハッとした。二つの言葉の『違い』が分かったからだ。
 私が日常的に使う言葉には、多かれ少なかれ乱れた言葉が入ってしまう。それだけでなく、一語一語を大して気にせず話すことが多い。しかし、この本の中の言葉はどうだろうか。例えば世阿弥の『風姿花伝』、宮本武蔵の『五輪書』などは言葉が生きていると思う。その道を極めた人だからこそ使える磨き抜かれた言葉には、一語一語に余すところなく魂が込められていた。
 『言霊』という言葉を思い出した。言葉に、霊力が宿る、というものだ。霊力でなくとも、この本の中の言葉は『人の心を豊かにする』力を持っていた。
 例えば、乱れた言葉である「ムカツク」という言葉は、この力を一割以下しか引き出せていない、と齋藤氏は表現した。この指摘は痛かった。まさにその通りだと思った。
 そんな低迷していく現代の日本語にブレーキをかけるのが、暗誦・朗誦文化の復活だという。目で読んで頭に覚えさせるのでは駄目。声に出して身体に、『技』として覚え込ませるのだ。そうすることにより、潜在的な日本語力は上がり、日本語の善し悪しの判断力が高くなるのだ、と。
 でも、優れた日本語を技として身につけて得るものはこれだけではないと、私は思う。
 日本人としての自分の存在を、誇れるようになるのではないだろうか。最近、齋藤氏も言うように英語のコミュニケーション能力の必要性が叫ばれている。そのためにも、優れた日本語力は必要だと思う。日本語力という技をもって外国の文化に触れ、互いの文化、殊に言葉の文化を交えて解り合えたら、どんなに嬉しいだろう。そんな時、美しい日本語を使える自分を、きっと誇りに思えるだろう。
 これから先、日本語は徐々に変わっていくかもしれない。それでも美しい、生きた言葉は変わらないと、この本は教えてくれた。それと同じように、変わらないものを守り、美しい言葉を使おうと努力する心を、失ってはならないと思う。そのためにも今、私は優れた言葉を吸収できる日本語力の器をつくって、後世に伝えていく、という使命をしっかりと受けとめねばならない。長い歴史の中で輝き続けた言葉達に、私はそんなメッセージをもらった気がする。
 『ここにとりあげたものは、日本語の宝石です。』本のはじめに書いてあった、齋藤氏の言葉。
 この夏私は、身体に、心に、輝くことをやめない宝石をたくさん埋め込んだ。


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