2019/08/28

『五体不満足』(乙武洋匡)を読んで【小学生用】

 「かわいい。」
 乙武さんのお母さんと乙武さんが初めて出会った時のお母さんの言葉。手足がほとんど無い我が子と、出会って、ショックを受けるのではなく心から喜んだお母さん。なんてすごいんだろう。ぼくは、母に、乙武さんのお母さんのように、出会えた喜びにあふれた気持ちで抱くことができるかたずねてみた。母は、「たぶんできないだろう。」と答えた。それが、ふつうなのかもしれない。
 乙武さんの学校生活の中で一番楽しみにしていた時間は、休み時間だった。サッカー、野球、ドッチボール、どうやってするの、と思うことをみんなとやって楽しんだ。その秘密は「オトちゃんルール」。周りの友達の「オトちゃんと一緒に遊びたい。」という強い気持ちがうみ出したルールだ。そして、ルールを作ることは特別なことではなく、ごく「あたりまえ」とクラスメートも乙武さんも思っていたところがすごいと思った。それだけ乙武さんが、特別な人ではなく、ただのクラスの一員、自分達の仲間という思いが強かったのだろう。そしてこんな友達に囲まれていたので、休み時間が大好きだったのだろう。
 乙武さんは、その後も、バスケットボール部に入ったり生徒会役員になったりと、ふつうなら無理だろうと思うことを、次々にあたりまえのようにやっていった。乙武さんは、きっと何をやるにしても初めから「できない。」とは考えない。まず、やってみる。失敗したら別の方法でやってみる。そうやってできたことが次への自信へつながっていくのだと感じた。ぼくは、「五体満足」であるが、日々の生活の中で、「どうせできない。だからしない。」と逃げていないだろうか。乙武さんも「だめだできない。」と思ったことがあっただろう。でも、それを乗り越えてがんばり続ける心の強さがあった。ぼくも、その心の強さを身に付けたい。
 乙武さんは、アメリカに渡った時、アメリカでは、すれ違う人からじろじろと見られないと感じた。それだけ障害者の存在が日常化しているということだ。身体の障害=身体的特徴、それだけのことだ。学校で観たパラリンピックのビデオの中に、「特別な目で見ないで欲しい。一人の人間としてスポーツマンとして見て欲しい。」という選手の声があった。そうなんだ。世の中には、太っている人ややせている人、背の高い人低い人、色の黒い人白い人、様々な人がいる。その中に、手足の不自由な人がいても何の不思議もない。一人一人違っているのはあたりまえのことなのだ。あたりまえと受け止めず、特別視する方がおかしいのだ。そういう気持ちでごくふつうに接することが、心のバリアフリーであり、乙武さん達が望んでいることなのだろう。
  障害による不便さの無い社会、障害による差別感を感じさせない社会を作り、障害なんて関係ないと言えるようにしていきたい。


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2019/08/27

『清兵衛と瓢箪』(志賀直哉)を読んで【高校生用】

 物の価値は、一体どこにあるのだろうか。見かけ、値段、希少性。それらのどれもが、価値を計るに満たないものばかりだ。価値や本質は、個々人の価値観によってつくられている。それを計るのに一般論は役に立たないだろう。価値を探る「目」。それを持っているということは、ある種の能力といえるかもしれない。清兵衛――彼はその希な能力のために自滅してしまったのだ。
 瓢箪――古瓢ではなく、まだ青くて皮つきのものに、十二歳の少年はとりつかれた。何故瓢箪なのか、私は疑問に思った。もっと少年らしいものに熱中すればいいのに、ただの普通の瓢箪。思えばそもそも、これが彼の能力であり異質な才能であったのだ。
 瓢箪の手入れをし、屋台の一つから飛び出た、爺さんの禿頭を瓢箪だと思って眺めていたりと、終始瓢箪に明け暮れる日々。それは充実し、かつ危険な日々だと思う。熱中のしすぎは周囲を見えなくさせるからだ。
 私にもかつて熱中したものがあった。それだけに清兵衛の境遇が痛いほど分かる。理解しようとしない父や教師、強い反発、そして再びのめり込んでゆく自分。周囲の見えなくなった自分をどうして止められるだろうか。しかし運命とは、常に一般論的だ。清兵衛の瓢箪を「価値なし」と判断した彼の父は、瓢箪をげんのうでたたき割ってしまった。この事実を清兵衛は受けとめられただろうか。彼の熱意、努力――それらの結晶である瓢箪。目の前でつぶされる自分のいわば「分身」を見た彼の心は、ぽっかりと穴があいていたに違いない。
 清兵衛の瓢箪に対する思いを無視し、軽んじる大人達に、私は反感を覚えた。物の価値は個々人それぞれであるからこそ面白いと思う。それを否定するのは、人間性の画一化をはかるようなものだろう。
 瓢箪は、清兵衛の内面の具象物ではないだろうか。人の内面ははかりきれない。それゆえ、目に見える形となって自分自身の心を満たす。そんな自分の具象を、誰にも理解されず、清兵衛はどれほど悲しく思っただろうか。私は小学生のころ、牛乳のフタをあつめていた。色とりどりで個性があった。少なくとも、当時の私にとってそれは充分すぎる魅力を持っていた。
 しかし周囲の大人達は、つまらないから捨てろと言った。何がつまらないものか、と思っていたが、結局は親に捨てられた。その時私は半分だけかくしておいた。せめてこの努力の結果を、記念としてでも残したかったのか。それとも「半分ある」という、ただの自己満足や自己欺瞞のためだったのか。
 隠した半分は、いつのまにやらなくなっていた。親にみつかったのか、自分で捨てたのか思い出せない。だが、なくなっていた時に私は悲しんだ気はしない。これでよかったのだ。熱中したものは、人を成長させると役目を終えるのだから。
 清兵衛の瓢箪も同じだ。彼の瓢箪は割られ、彼を一まわり大きく成長させた。彼は瓢箪を割った父を恨んでいるだろうか。私はそうは思わない。清兵衛には瓢箪の「役目」が分かっていたはずだから。
 私も清兵衛も、今は別なものに熱中している。かつて熱中したものと同じくらい。結局、人に必要なのは熱中できる「何か」だったのだ。それはもろく崩れやすいが、確実に人を成長させてくれる。
 人には熱中できる「何か」が必要だ。熱中することに生きがいを感じ、活力を得る。人それぞれ「何か」は違っても、それにかたむける努力や熱意は変わらない。熱中することは、実に生き生きとした自分を表現できる。 いわば、言葉ではない言葉で自分を語るようなものだ。
 ところが、他人は外見を気にして、本人が熱中しているものを否定しようとする。もっと将来の役に立つもの、他人様が見ても恥ずかしくないものをと押しつける。だがそれを決める基準があるだろうか。ありはしない。仮に基準があり、皆それにならったとしたら、なんと味気ないことだろう。
 清兵衛は人よりも純粋な心が多かった。瓢箪にひたむきに熱中する彼は、とても輝いていたに違いない。自分の道を黙々と歩み、障害を乗り越えた彼に、私はいつの間にか感情を移入し、拍手を送っていた。
 現代に生きる私達は、他人を気にしすぎるあまり、自分の内面を見失いがちだ。清兵衛は私達に熱中することの大切さを教えてくれる。熱中する彼の姿は、どこか冷めた現代への警鐘だと私は思う。人はもっと熱中して成長しなければならない。
 現代には清兵衛がたりない――。

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『沈黙』(遠藤周作)を読んで【高校生用】

 私はなにも信じてはいない。神も、仏も、信じていない。否、信じられない。
 毎朝、曖昧な頭で新聞を手にとる。新しい紙の匂いと共に、今日もまた、凄惨な事件がこれでもか、と言うほど記事になっている。恐喝、強盗、通り魔、殺人。勿論事故もあるけれど、犯罪の数の方がそれを遥かに上回っている。それだけではない。今、この瞬間も世界のあちこちで、「戦争」と銘うった大量殺戮が行われ、尊い命が散っている。しかも、そこで幾ら人を殺そうと、誰にも罰せられはしないのである。また直接争いに関与していない人でも、「鎮圧」の名のもとに殺されたり、仕掛けられた地雷を踏んで亡くなる事がある。以前、地雷に関する書籍を読んで様々な種類がある事を知った。たった三百円で造れるオモチャ型地雷、子供までターゲットにした殺戮さえ存在する。何故?何のために?私の貧困なボキャブラリーではこの憤りを言い尽くす事など到底叶わない。
 だが、そんな罪なき人々が理不尽に殺されてゆく時でさえ、多くの人が信じているもの、それが神であれ、仏であれ、誰も救ってくれはしない。いつだって遥か高みから沈黙を守ったまま、死んでゆく人々を「見守って」いるだけだ。それは「見殺し」と言いかえられるのではないだろうか、と、長年思い続けていた。
 主人公、セバスチャン・ロドリゴも獄中で同じ事を考えた。信徒達や同僚ガルペが殺される場面に直面させられながら、殉教とは、信仰とは、神とは何かを考え続けた。やがて彼はかつてのフェレイラ師…沢野忠庵の説得により、彼の一つの答えとも言うべき決断をする。そこに迷いはなく、ただ痛みのみが存在するだけだった。そして彼は悟り、涙を流すのだ。穴吊りにかけられた信者達の事について。日本の基督教について。己の弱さ、それを直視することの痛さ。そして、神の沈黙について。
 背教をしたロドリゴ、いや、せざるをえなかった彼の心理に触れた時、頭を殴られたような衝撃を受けた。私もロドリゴと同じではないか!安寧の広がる日常に、少しの疑問と反抗をスパイスにして生きてる私。不条理に対してただ憤るばかりで何も行動していない今の自分。クーラーのきいた部屋でニュースを見、遠く離れたイラクの情勢に憤慨していただけ。そんな人間に一体何が出来ようか。それを自覚するのは酷く痛かった。フェレイラの痛み、ロドリゴの痛み。「痛感」というものはこれを言うのだと初めて理解した。本を閉じればすぐにこの痛みから逃れられるはずだったが、そうする事が出来ない何か特別な衝動にかられて読み続けた。ロドリゴは自分の、他人の全ての弱さを認め、愛し、包み込むようになる。弱き者、キチジローにさえ「行きなさい」と告げるその姿はまるでキリストのようだ。彼は背教して初めて彼の愛する者に一番近づけたのだと思う。
 私は神というものは全能だと思っていた。だがこれを読んで間違っていたことを理解した。神は「痛みを分かつ者」だった。そうすることで神は人々を救うのだ。だから彼は人々が死んでゆくのを止められない。皆にあがめられる神でさえ、人の生死を左右する事等できやしない。神は沈黙していたのでもなかった。救いは自分の弱さを認めた時はじめて与えられるものだった。
 死んで逝った人々を呼び返したい。ということはどういうことを表わすのだろう。当時の受難者達が彼らの目線で、今の私達の日常を見た場合、結構づくめの異常さの文明世界はどんな眺めに映るだろうか。かの時代の人々に、私達の精神世界はどう視えるだろうか。
 あの当時の日本人こそが、死をもって倫理の極みを超えてゆく、そんなひたむきに生きた人々の確かな足跡を創った。歴史や文学で知る彼らの生きざま、それを辿って往く道、代償も求めず痛みを超えて、崇高に紡いでくれた精神を共感する、そんな心の旅も悪くないなと今、思えてくる。
 夏の日射しに熱せられた生温かい風が、微かな音と共に私の横を走り去ってゆく。蝉は競うように歌声を響かせている。私は思う。この風のうなりは平和の事などではなく、世界の崩壊のうめき声ではなかろうか。一介の高校生に過ぎない私に出来る事はないのだろうか。第三次世界大戦ともいわれるこの戦いを終わらせるにはどうすればいいだろうか。それはもう、本当に止まらないのだろうか。いや、きっと出来るはずだ。人が死ぬのを止めるのは神には不可能だ。だが同じ「人間」ならば…可能だろう。すべての人が幸せになれる解決策を見付けるのはきっととても難しい。見付けられないかもしれない。でもどんな形であれ、何か答えはあるはずだ。
 本を閉じたら、まず、自分に出来る事を探しに行こう。痛みを超えて進むことが、救いとなるのだから。


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『黒い雨』(井伏鱒二)を読んで【高校生用】

 私が母の本棚からこの本を手に取ったのは、丁度広島に原爆投下のあった八月六日の翌日かその次の日であったろうと思う。私は、八月六日にどこかの新聞で、或る記事を読んだ。それは、やはり原爆投下に関する記事であったが、最近、原爆投下について「やむを得なかったものである」と認識する若者が増加傾向にあるというものであった。私はその記事を読んだとき、不本意にも、その意見に同調していた。米国では原爆投下が「戦争の早期終結にはやむを得なかった」と言われているということを私は小学生やそこらの歳に初めて知った。確かその時はこれに大きな怒りを感じていたように思う。しかし今、高校に入学して一年半が過ぎ、社会情勢なども考え併せると、確かに、当時の日本のやり方も間違っていたし、たとえ大きな犠牲が払われようとも、戦争を長引かせるよりは良かったのではないかという、妙に落ち着いた気持ちになっていた。
 私はこの『黒い雨』を今までにも何度かとばしとばし読んだことがあった。私は原爆病や放射能の人体に与える影響に殊に興味があったので、この小説での原爆病に関する記述を中心に読んでいた。今回読んだのも、やはりその理由はあったが、折角八月六日に新聞でああいった記事を読んだのだから、最初から読んでみようかという気になったのだ。しかし、最初から最後までを読み通したとき、あまりの恐ろしさに途中何度か読むのをやめたくなった。読めば読むほど、私の頭の中は混乱し、冷静に考えられなくなっていった。原爆のことは何でも知っているつもりだったが、果たしてこんなに恐ろしいものだっただろうか? 読み終わったとき、私は今までなにか大きな考え違いをしていたのではないかと思わずにはいられなかった。
 場面は、戦争から何年も経過し、平和に戻りつつあると思われた頃の或る家庭に始まる。養女の矢須子の縁談がもうまとまりそうだというときに、矢須子が原爆病だという根も葉もない噂が広まる。そこで、養父の重松の書いた被爆日記が先方の誤解を解く為に取り出されたというわけである。そこから、被爆日記と現在を交えて話が進んでゆく。しかし、重松やその他の被爆者についての記述が多く連ねられ、とりあえず原爆直後の無残な光景を目の当たりにして愕然としていると、さらに次の悲劇が待っていた。矢須子が原爆病を発症したのである。婚約がまとまりかけていたために、それをうち明けられず、ほぼ手遅れの状態でそれは発覚した。それから終わりまでは、矢須子の病状を克明に記してある。歯が抜けたり折れたりする。歯茎からは血が流れ出して止まらない。脱毛はなおのこと、腫れ物が次々につぶれては新しくでき、またその繰り返し。私が特に鮮明に記憶している場面は、入院中の矢須子が、夜中、患部のかゆさに泣いていた場面である。看護婦が寝間着の裾をめくると、腕虫がうようよいたというのである。腫れ物の腐敗している部分に卵を産み付けていたのである。現代では考えられないことだ。何の薬を飲めば何に効くのかもわからず、行く先行く先で診断も異なり、ただ病状だけがひどくなってゆくやりきれない女の姿は、まるで目の前で見ているかのように克明に浮かんできた。原爆をただの過去の出来事として記憶していくのはあまりにもあさはかだと思った。
 現代は、物事の色々なとらえ方や考え方が多すぎて、私もよく混乱する。何が正しいのか、何が間違っているのか、その根本までが揺らいでいるように思う。おそらく、私が原爆投下を「やむを得なかった」と感じてしまったこともそうだろう。温室同然で育った私達は、当時の人々が日々を生き抜くだけ、たった今日一日を生きるためだけにどれだけの労力を費やしていたかを知らない。
 途中「水とはこんなに旨いものであるか」という重松の言葉があった。丁度この夏は猛暑であったが、のどが渇いたときの水分は格別だ。そういった、当たり前のことがいつになっても変わらないことは誰もが知っている筈なのに、人間は大事なことをなぜか忘れてしまう。今この瞬間に自分が生きていることを、ただ当たり前だと思わずに、過去のいろんな出来事の上に自分が生きていると認識して、自分のこれからするべき事を考えれば、間違いなど起こるはずがない。この小説の中の人間達も、私達現代人も、今日を生きるために生きていることには変わりない。
 戦争が終わっても、平和の訪れなかった人々。たとえ原爆投下のおかげで戦争が早期終結したのだとしても、この原爆投下が悲劇であることに変わらない。五十年余りが経ち、忘れられそうになっているこの出来事は、今になってたくさんのことを教えてくれた。私は、ただもう二度と黒い雨が降ることのないように、このことを忘れずにいたいと思う。


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『肝臓先生』(坂口安吾 )を読んで【高校生用】

 『肝臓先生」――この題名を初めて見たとき、私はこの物語が肝臓先生という後世に言い伝えられる程立派で学ぶところの多い先生が主人公の物語だろうと思った。しかし、読み終えた後、一体誰が主人公であるのか、私にはよくわからなくなってしまった。「私」とあるのだから、烏賊虎さんを訪ね、肝臓先生についての話を聞いた「私」こそ主人公だと考える人もいるだろうし、私もそれを否定する気はない。しかし私はあえて、まだ主人公はいるのだと言い張りたい。まず「肝臓先生」。題名にもなっている程だから容易に察しがつくだろう。しかし、それにも増して、私が「もう一人の主人公」として注目したいのは「漁師町の人々」なのである。どうしてだろう。この物語を読み終えた今、私の中には肝臓先生と同じぐらい強くはっきりと漁師町の人々の残像が残っているのだ。このことを考えるうえで私はまず「肝臓先生」と「漁師町の人々」のつながりを考えてみた。
 まず赤城先生、人呼んで「肝臓先生」は、ある時から診断する患者のほとんど全員が肝臓炎を患っていることに気付き、はじめは大変悩んだ。この肝臓炎を研究し、その真相をつきとめるべきか。このとき彼の中には、研究の成果によって一人でも多くの患者を救いたいということだけでなく、少なからずとも今まで町医者として毎日毎日変わらず町の人々を診てきた自分が輝かしい研究成果を公表する姿があったはずだ。しかし彼はやはり自分の進むべき道を見失わなかった。人はどうしても地位や名誉のある道を選びたくなる。けれども、いつも(自分がこの世ですべき役割は何なのか。)ということを心に留めて行動することを忘れてはならないのだ。そう彼が教えてくれた気がする。
 一方、漁師町の人々はというと、彼らは、なんの怒号も劇的な動作もなく、日々変化もなく平々凡々と生きている。皆が漁師だから、当然俗世の名声などには興味がない。唯一の例外が、漁業においての武勇伝がその一家、そして子孫にまで伝えられていくことぐらいなのである。
 そんな漁師町の人々がなぜ肝臓先生を崇拝するかというと、それは自分達を救ってくれたからではなく、彼の存在自体が町中、いや彼の生き様を知る全ての人に、あるものを与えてくれたからだと思う。彼が残してくれた「地位や名誉のあることだけが人のすべきことではない。一番大切なのは、自分の"この世の中での役割"を見つけ、見失うことなく果たすことなんだ」という素晴らしいメッセージが、名声などとは縁遠い、彼らの平凡な暮らしに意義を与えてくれたのだろう。
 この物語で、もう一つのキーポイントとなるのは「伊藤市」というまちではないだろうか。一見単なる舞台であるように思われるどこにでもありそうな市であるが、この市の存在自体が私に疑問を投げかけているよに思えて仕方がない。平和なあたたかい町である漁師町と俗世の評価を大事に大騒ぎをしている温泉町。この全く性格の異なる町同士が隣り合い、ひとつの市を形成し、そして調和している。これはなぜなのであろうか。
 私は決して、名声を大事とする生き方もきちんと認めるべきだと言っているのではないが、これも"役割"なのではないだろうか。毎日変わらず漁に出かけ、おいしい魚をたくさん獲り、陰で人々を支えている漁師町の人々。よそから来る温泉客をあたたかく迎え入れ、いつも賑やかに騒いでいる温泉町。このどちらが欠けても伊藤市は成り立たないのである。
 そう、この物語は、世の中の皆それぞれが『この世』という巨大なかたまりの中の一つのパーツなのだ。ということを私に教えてくれたのだ。それぞれ全部違った形をしていて、一つでもなくなるとうまくいかない。目立つ部分で働いているものもあれば、縁の下の力持ちとして皆を支えているパーツもあるのだ。
 私はどこのパーツなのだろう。何の役割を果たす為にこの世に生まれてきたのだろう。きっとその答えはなく、私たちが自分自身で見つけるものなのだろう。星の数ほどある選択肢から自分の一番好きな道を選ぶ。それこそ、この地球上でたった一つしかない自分にぴったりのパーツなのだろう。私には、ささやかだけれども、どうしても叶えたい夢がある。"夢"というと自分本位に聞こえるけれども、それが私の好きなことであると同時に、私にしかできない大切な役割だとしたら、なんて素晴らしいことだろう。
 「将来どんな仕事をしたい?」と聞かれると「人の役に立つ仕事がしたい。」と答える人は多い。しかし、自分の好きな仕事こそ、自分にとって最高の仕事であるだけでなく、最も人の役に立つ、その人にしかできない仕事に違いないのだ。



『鉄道員』(浅田次郎)を読んで【高校生用】

 彼は、きっと無器用なのだ。鉄道員、つまりポッポヤである乙松は、無器用にしか生きられなかった。死んだ子供を旗を振って迎え、妻の危篤にかけつけることもできなかった。私は、そんな彼に絶句しながらも、なぜか自分がみじめに思えた。彼に比べたら、自分は生きた抜けがらのようだ。
 鉄道員として生きる、とはどういうことか。「―として生きる」ということを捨てられない生き方とはどういうものなのだろう。私はその思いをあえて「信念」と呼びたい。
 「自分の『信念』は何か」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。また、答えた人の中に、それを貫き通せる人はいるだろうか。少なくとも私は、この質問に答えることができない。
 「ポッポヤやめたらもう泣いていいだろうか。」胸をうち抜かれたような衝撃が、体中に走った。人間という生き物は、自分の気持ちを押し殺してまで、「信念」を貫き通すことができるのだろうか。私は、そうは思えない。そうできないからこそ、人間なのではないだろうか。それとも、私が「信念」を持っていないために言える戯れ言なのだろうか。そのどちらにしても、乙松は苦しんでいた。涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに喚呼の声を絞らなければならないことに。
 そんな彼に、救いの手がさしのばされた。それは、彼の死んだ娘の雪子の登場であった。雪子が現れたことで、乙松は押さえていた感情をさらけだした。彼は苦しみから解放されたのだ。一方の雪子も彼を恨むのでなく、彼の「信念」を、生き様を理解していた。それどころか、自分が早くに死んだために父親が苦しんだことを詫びた。私は、そこに家族の愛を見つけた。家族の愛と一言でいっても、薄っぺらいものではなく、本当の家族愛だ。では、本当の家族愛とは何かと尋ねられると、容易に答えることができない。しかし、私は家族愛は家庭によって様々な形があると思う。
 ここでの家族愛は、乙松が自分の「信念」を貫き通したこと、また、妻や雪子が彼の「信念」を理解していたことだ。もし乙松が、雪子を失った悲しみからポッポヤをやめていたら…それは自分を甘やかすことで、決して雪子を想い詫びることにはならなかっただろう。だからこそ、乙松は、精一杯自分を貫いて生き、その中でも家族に対する感謝の気持ちを忘れなかったのだ。また、妻もその気持ちを理解していたから、黙っていたのだろう。私はこの家族愛を前に、どこか空虚な現代社会の家族関係に疑問を持たずにはいられなかった。
 何も、現代社会の家族に愛がないと言うのではない。私たちが、家族愛だと信じているものは、本当にお互いのことを想ってのものだろうか。必ずしもそうではないと思う。現に、よく親が子供に「あなたのため」というのを耳にするが、それが本当に子供のための発言であることは少ない。だいたい、その言葉を口にすることからして何か間違っていると思う。ただ、子供を自分の言動の理由にしているにすぎないのではないだろうか。このようなところから、現代社会に小さな歪みが生じてきているのだと私は考えている。
 私が、乙松をうらやましく感じるのは、彼が「信念」を死ぬまで貫いたからだけではない。彼の周りに愛があったからだ。彼の人生は、端から見たら仕事一筋で何も楽しみのない人生、いいことや嬉しいことよりも辛く悲しいことの方が多い人生だった。だが、そこに「愛」と「信念」がある限り、その二つを見失いかけている私たちには、彼の人生がうらやましく感じられるのだと思う。けれど、私は今まで自分の人生を不幸だと思ったことはない。また、反対に心から幸せだと感じたこともない。それはきっと、私がそこまで真剣に生きていないからだと思う。だからこそ、乙松が「信念」を持って苦しみながら生きているのを見て、自分を抜けがらのように感じたのだ。
 しかし、私には乙松のような生き方をする自信がない。時代が変わってゆくなか、人が変わらないということは不可能にも思えるからだ。あるいはこうも言えるかもしれない。時代の変化がもたらす諸問題に対応しなければならない私たちは、乙松の生き方にひかれはするが、彼のように生きるわけにはいかないと。私には「ーとして」生きるものはない。しかし、決して時代に流されるのではなく、私は自分の信じることを胸に精一杯生きていこうと思う。そして、そうすればきっと自分を理解してくれる人が現れるだろう。家族、あるいは家族をも越えた強い絆が生まれてくるはずである。

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『風立ちぬ』(堀辰雄)を読んで【高校生用】

 「生」という、はかない猟燭の灯火は、常に「死」という暗闇が無ければ、その灯火の美しさを確認する事は難しく、また、その尊さを知る事もできない。常に生と死は表裏一体でなければならない。しかし、普段の生活で「死」を意識する時間が果たしてどれほどあるだろうか。
 武士の行動規範の書である『葉隠』では、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という一句が示すように、常に「死」と隣り合わせで物事を考え、行動せよという思想が、全ての教えの骨子となっている。『葉隠』は武士の為の書であるから、現代人に照らし合わせるのは難しいかもしれない。しかし、例えば、「自分の命は今日限りかもしれない」と思って、学校へ行ったり、仕事をすると、その時間はきっと濃密になるだろう。これがまさに、武士の持つべき、理想的緊張感である。また、「もう、この人は死ぬんだ」と思って、恋人と出会うと、どうしようもなくいとおしくなって、優しくなれるだろうし、辛いだろうが充実した時を過ごせるだろう。私は前者の心構えを『葉隠』で知り、後者を『風立ちぬ』で知った。
 『風立ちぬ』の作中では、常に「節子の死」がバックグラウンドとして用意されている。婚約者である「私」も、節子自身も、その父も、節子の短い命を知っているのである。しかし、もはや残り少ない命を受け入れて、節子は「私」と愛を語らう。静謐とした、自然に囲まれたサナトリウムで、「死」の黒い影に怯えながらも、懸命に生きようとする節子の、あまりに健気な姿。そして、それを見守る「私」の深い愛。二人の切なくなるほど誠実な生き方に、私は深く心を打たれた。そこには、現代人が失いつつある、「懸命な愛と生」が具現化されていたからだ。
 しかしながら、「懸命な愛と生」は死に近い者を気丈にさせるが、残される者にとっては、つらく悲しいものである。例えば、「私」が、ある筈の無い未来について考えてしまうが、自らの死を覚悟した節子の言葉を聞いて、産しさを覚える場面などは、その苦しみを真正面から描いている。「懸命な愛と生」は、生きる者に痛みや苦しみを、容赦なく与えてくる。
 確かに、景に人を愛するには、多大なリスクが伴う。命に愛すれば愛するほど、失った時の悲しみは大きい。「私」もまた、懸命に節子を愛した結果、彼女を失うと、一時は空になってしまう。しかし、劇的なリルケの詩句に救われ、「私」は「生」に向かって歩き始める。このリルケの詩句「レクイエム」は「死」を歌いながら、逆説的に「生」の輝きを増させるという手法を取っている。そのような意味で、この詩句は『風立ちぬ』を象徴していると言える。鎮魂歌は必ずしも死者に手向けられているわけではない。むしろ、残された者に手向けられているとさえ言える。堀辰雄が訴えかけているのは、決して死の残酷さや苦しさではなく、生きている者の強さと美しさだったのだ。
 そして物語は収束する。「私」は、僅かだと思っていた小屋の明りの意外なまでの拡散を見て、自らの「生」の尊さを知る。こうして、「死」を背景にして、最後に「生」の尊さを証明するという、逆説的な物語は完結する。幻想的に、美しく、そして強く……。
 『風立ちぬ』を読了した後、私は虚空を見つめ、生きる事と愛する事について思案した。モノが溢れかえり、食料は豊富にある。かつてないほどに生きることが容易になり、「死」は忘却の彼方へと追いやられた。しかも、現代はそれを赦し、認めてしまっている。このように「死」が忘れ去られた中で、果たして『風立ちぬ』で具現化されているような「懸命な愛と生」が実践されうるのか。否、されないだろう。
 「死」という喪失から遠ざかってしまった人間に、「愛」や「生」という、喪失が前提とされているものの、根源的な価値を認める事など出来ない。その証拠に、現代の風潮では「愛」はメディアのエンターテイメントと化しており、一方「生」は、それを軽々しく扱う人間によって引き起こされる、残虐な殺人事件によって蹂躙されている。現世的な利益を求める事が至上とされる思想が跋扈し、「懸命な愛と生」の持つ、深く広い意義は軽視された。しかし、昨秋に起きた同時多発テロのような悲劇に見舞われて、初めてその意義は思い出されるだろう。
 今、ただ生きている事だけに満足してしまっている人間が求めなければならないのは、「死」を畏怖する心であり、それを見据えた「懸命な愛と生」であり、その価値を教えてくれる『風立ちぬ』という、純粋で誠実な書物の存在ではないだろうか。

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