2019/08/27

『破戒』(島崎藤村)を読んで【高校生用】

 人として生き、人として死んでいく。当然のことだと誰もが思っているだろう。しかし実際は、本当に人と平等に接している人は少ないように思う。そしてそのことに気付かない人や無意識のうちに平等でないことを当然としている人がほとんどだろう。では、本当の平等とはどこにあるのだろうか。
 「決して打ち明けるな。隠せ。」これは呪縛だ。丑松が自分の祖先から、そして自分自身から解き放たれることは決してできないという。そして丑松が自分の本来の姿を出さぬよう生きていかなくてはならないという。なぜ自分を捨てて生きていかなくてはならないのか。ただ被差別部落民の名のもとで差別を受けなくてはならないのか。残酷な人間同士の傷つけあいには、心の中の恐怖が大きく影響しているように思う。
 人間は常に心の中に恐怖を持っていると思う。人から仲間外れにされたくない。人から遅れたくない。人に軽蔑されたくない。この心の弱さが自分を守るという行為に走らせる。そして自分の位置を確立するために自分より下の人をつくろうとする。ただ自分を守ることで必死なのだ。
 何を犠牲にしても自分さえ良ければ、という気持ちは、私にも確かにある。自分が傷つきたくないから、自分を守りたいから、人を傷つけてしまったこともある。でも、そんな事をしても本当に悪いと思えないのも事実だ。自分の立場が良くなればそれで安心してしまい罪悪感を覚えることもないのだ。そういう自分を恥ずかしいと思う。情けないと思う。でも本当に悲しいのは自分が悪いと気付かないことだ。いや、認めたくないと気付かないふりをしているだけかもしれない。普通に教育を受けてきた私にとって、善悪を区別することは簡単なことなのだから。しかし自分を大切だと思うことが全ての悪を、罪を、隠そうと認めまいとするのだ。どんなに口できれい事を言ったところで、心の奥底にはずるい気持ちがうずまいているのだ。
 では、自分より大切なものに出会えた人はどうだろう。お志歩はなぜ丑松が被差別部落民と知ってなお結婚したいと思ったのか。答えは簡単だ。ただ丑松と一緒に生きていきたい、そう思ったからだ。他人が勝手につけた値打ちによって苦しみ、ふりまわされることもあるかもしれない。それでも共にその苦しみを乗り越え、真の姿を認めてあげたいと思った時、人は自分の中の弱さに打ち勝つ勇気を手に入れるのではないだろうか。しかしそれを手に入れることが難しいからこそ、差別が今も消えてはいないのだ。
 人には背負っていかなくてはならないものが必ずある。周りが決めた物さしで勝手に差のあるスタート地点に立たされる。ずっと後ろに立たされた丑松、猪子、高柳。彼らのレースは、同じ被差別部落民という同じ障害をもちながら全て違っていた。丑松は自分が差別されることへの疑問も常に持ち続けていた。しかし高柳はただ自分が被差別部落民であるという恐怖だけをもっていた。大きな違いである。だからその障害につまづいた時、つまり自分が被差別部落民だとみんなに知られた時、高柳は自分で二度と起き上がろうとはしなかっただろう。しかし丑松は違う。「我はえたなり。」丑松は自分から告白した。これで自分は永久に誰にも受け入れられなくなるかもしれないという覚悟で。そして再び起き上がったのだ。
 懸命に生きていく丑松の姿は生徒の目に純粋にまぶしく映ったにちがいない。生徒達は告白の後も丑松を慕い続けた。教師として理想の在り方だと思う。教師として以前に人間としての丑松への生徒の尊敬。丑松と生徒との信頼関係にうらやましさを覚える。
 私にも教師になりたいという夢がある。丑松のように生徒に希望や力を与えられたら、と思う。しかし本当に丑松のような強さを持てるだろうかと不安になる。自分を飾り自分を守って生きていくことを否定しきれない自分もいるのに。しかし全てを取り除いた後の私には何が残るのだろう、そう問いかけた時はっきりと答えられない自分に愕然とした。自分の人生に自信を持てていない人に他の人へ希望べ力を与えることなんてできはしない。私は自分のレースをただ前だけを見つめて走れてなどいないのだ。周りの人の目を気にしてぎこちなく走っているにすぎないのだ。何も飾らず、自分のレースを自分らしく走りたい。そう思う。
 本当の平等とは何なのか分かってきたような気がする。自分らしく自分のレースを一生懸命走る、その一生懸命さこそが皆同じなのだ。それぞれの人の努力には誰も軽腰も差別もできるはずがない。自分の人生を、愛しながら進んでいこう。自分らしく生き始めた時、きっと他の人のその人らしさを認めることができるはずだから。そして自分の弱さに打ち勝つ強い愛を持って生きていきたい。

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『芋粥』(芥川龍之介)を読んで【高校生用】

 「理想」や「欲望」といったものは、それを追求する過程においてのみ、価値を生じるものなのだろうか。私たち人間は、それぞれに無限ともいえる「理想」「欲望」を抱えて生きている。それらは、すぐにでも手の届くような小さな「欲望」から、強い意志と果てしない努力を要する究極の目標とも言える「理想」まで様々だ。私たちは、その実現に努力するが、一旦かなえられてしまうと、しばしば幻滅をもたらしているようにも思える。
 五位の容貌は「非凡」なまでにだらしなく、そのみなりも「委々しい」ものであった。周囲の者はそんな彼を軽蔑し、彼の言動を何かにつけて嘲笑、罵倒した。しかし、彼はどんなに揶揄されても腹を立てたり涙を見せたりしない。顔色一つ変えずただ黙然といつもの役目を繰り返す。意気地がなく、自負心というものを持ち合わせていない彼は誰にどんな悪戯をされようが、意地悪を言われようがお構いなしなのだ。
 そんな人間だから、人生に何の希望も持っていないかというとそうでもない。どんな人間でも、生きるためには多少の希望が必要であろう。これが明日を生きる活力を生み出す。
 五位の唯一の至福の時は、芋粥をすする時である。しかもその機会は年に一度あるかないかで、すすると言ってもわずかに喉を潤す程度のものだ。しかしこの瞬間に彼は人生の喜びを感じる。「芋粥に飽かむ」これが彼の一生を貫いている希望つまり「欲望」だ。彼は、この小さな「欲望」を糧として何十年も生きていると言っても過言ではない。
 しかし、彼の「欲望」は、思いの外容易に実現することとなる。利仁が彼の本拠地である敦賀に連れて行き、芋粥を馳走してくれるというのだ。利仁の館に到着したその夜のこと。何となく釣り合いのとれない不安が五位を襲った。明日には芋粥が腹いっぱい食べられる、時間の経つのが待ち遠しい、という気持ち。と同時にその時をそんなに早く迎えてはならないような気もする。この二つの感情が五位の中を交錯していた。五位にとって翌 朝待っているものはこの上ない幸福のはずだが、利仁の従者たちが芋粥の準備に奔走するのを寝耳に聞きながら彼はこんなことを考えていた。周囲から寄ってたかって揶揄されていた都での暮らしがなつかしい。芋粥の存在がまだ遠かったあのころに戻りたい――。
 案の定、彼は翌朝の膳にのほった芋粥を食べる気になどなれず、ただ見るだけで満腹を感じてしまう。五位の唯一の希望「欲望」は、「芋粥に飽かむ」ただそれだけであった。つまり所詮は「理想」になり得るようなものではなかったのだ。
 しかし、考えてみると、私たちはどれほど自分の夢「理想」を明確に認識しているといえるのだろう。 現代という時代では、自分の一生を物語として描くことが難しい。一生を貫く夢を持っている人はまれだと思う。このために自分は生きている。というものが欲しい。が、大きな夢でもつかみどころがなければ、それを目標に何十年も生きていくのは困難だ。ささやかでも、手をのばせばすぐにでも手に入るような「欲望」が、私たちを明日へ導いているというのが現実なのではなかろうか。ある面、私たちは五位と変わりないのではないか。
 ところで、私自身の「欲望」の内実はどういったものだろう。食欲、財欲、情欲と様々ではあるが、やはり私が一番求めているのは他人に認められることだと思う。そのために日々思い悩み、努力し、その悪戦苦闘のなかで見出した小さな悦びを明日への活力にしているのだ。他人に認められたいと思うことは、他人との関係の中でこうありたいという自分像を抱いているということだ。私は常に他人との相互関係の中で、よりよき自分の在り方をさぐっていたのだ。いや、これは私に限ったことではなかろう。私たち人間は、他者の存在によって人間たりうるのだ。日々を無為にこなすだけでは、生きる価値も持たない。五位には他者が存在していない。だから五位の「欲望」は達せられぬうちが花だったのだ。他者との関係から生じる「欲望」は、達せられると同時に次の次元へと進む。ある面、貪欲の塊である私たち人間には、この心理のからくりを止めることは決してできまい。しかしながら、この貪欲さが私たちを動かしている要因の一つであることもまた、紛れも無い事実である。「欲望」とは、私たちの現実を理想へと近づけるためのアイテムになりうる。そう考えると、「欲望」の中身そのものが、私たちの人格そのものを表していると言えるのではなかろうか。何を望むかによって、その人間性が見えるだろう。私は、自分の「欲望」を「理想」に一つなげるものとしたい。そして、それが社会にとっての「理想」と重なるよう、他者との関係を見つめながら自分自身の生き方を見定めていきたい。

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2019/08/26

『ノルウェイの森』(村上春樹)を読んで【高校生用】

 ワタナベ君はなぜ最後まで死ななかったのだろうか。彼のまわりの人たちが次々に自ら命を絶っていく中で、どうして彼は生き続けることを選んだのだろうか。
 簡単に考えるなら、それは彼自身がいうように「本質的に楽天的な人間」であったからだ。しかし本当はそれだけではないと僕は思う。直子さんのいる療養所を訪ねに行ったとき、彼は初対面のレイコさんから、心を「開こうと思えば開ける人」と言われている。開くとどうなるんですか、と尋ねる彼に彼女は「回復するのよ」と答えている。キズキ君の死んだ夜から、何もかもが死を中心にして回転していたという彼が、最終的に生き続ける方を選んだというのを「回復」とするなら、「心を開く」ことは、ほうっておくと過去や死の世界へずるずると引き込まれていく自分を抑え、現実の世界と関わり未来志向で生きること、その勇気を持つことと言い換えられるのではないか。
 では何故彼は「心を開く」気になったのか。彼が死に近かった理由は「孤独」だと僕は思う。高校時代、彼には友達がほとんどおらず、また作ろうともしなかったようだ。そんなことしてもがっかりするだけだからと彼は言っているが、僕にはその気持が何となくわかる。あの人なら自分を理解してくれるのではと思った人のところへ行って話をしてみてもやっぱり違う、とか友達づきあいをしているうちに、当初は理想の友人と思われた人から、自分には理解できない、我慢ならない言動が飛び出してきた、とかそういうことを何回か重ねていくうちに友達づくりへの期待がしぼんでしまったのだろう。実は、これは僕自身の体験なのだが、ワタナベ君もきっとそうだったのだ。自分の個性や価値観といったものが、世の中で多数派のものと異なっているのだろう。
 それでも、僕には話を聞いてくれる人がまわりに沢山いる。だから何ともない。ワタナベ君にはひとりしかいなかった。「唯一の友人」 キズキ君である。でも彼は自殺してしまった。理解しあえる人が一人もいない世界。僕には想像がつかないが、たぶんそれは絶海の孤島に一人取りされるよりもずっと孤独なものだろう。なぜなら、まわりじゅうを「わかりあえない人達」に囲まれているからだ。
 そんなひどい孤独の中から彼を救い、「心を開く」気にさせたのは「緑さん」の存在だったと僕は思う。二人は大学が同じで知り合ったのだが、とにかくこの二人のやりとりは読んでいて本当におかしかった。引用していたらきりがない。まるで緑さんがボケ役、ワタナベ君がツッコミ役のコントみたいだった。
 緑さんは可愛らしくてスタイルも良い、名門女子高出の人である。おっとりとしたお嬢様を想像するが、本人が「どうしてもシックになれないの」という通り、あまり上品ではない。考えることが少し普通と違う。そのうえ想像力がものすごいので、いつもとんでもないことをワタナベ君に尋ねる。たぶんそんなときの彼女の目はらんらんと輝いているのだろう。ワタナベ君はたいてい、半分呆れたようにちょっと返事をするだけなのだが、心の中では、からっとしていて、前向きで、表情が豊かで、自分に正直な彼女に好感を持っていたに違いない。実際、緑さんが前の彼氏と別かれてワタナベ君にプロポーズしたときには、ワタナベ君も緑さんのことを、直子さんと同じくらい好きになっていたのだ。
 後に、彼はそれがもとで苦しんだが、この苦しみは、彼の「生き方の変化」にともなう苦しみだと僕は思う。緑さんと出会い、その健康的な生き方に憧れる。自分の新しい生き方はこれだと思う。彼女を好きになる。でも鋭く繊細で、完全な美しさを持つ直子さんも、やはり好きだ。今にもこわれてしまいそうな彼女を守りながら、ずっと一緒に生きていたい。彼は二つの違った生き方のはざまで、二人の違った生き方をした女性に恋していたのだ。そして、結果的には直子さんは自殺し、ワタナベ君は「世界中に君以外に求めるものは何もない」と緑さんにはっきりと言った。彼は過去は過去として、緑さんと幸せになると心に決めたのである。退廃的な美しさに満ちた十代の少年をやめて現実を見つめ、頭のねじを巻きなおし、自分に正直に生きることにしたのである。ワタナベ君自身が「生きつづけるための代償」と呼ぶこれらのことこそ、「心を開く」ことだと言えるだろう。
 僕や僕のまわりの世界とは少し違うところの話だったので、共感することよりも推察することの方が多かった、というのが今の正直な感想だ。けれども、価値観の多様化が進んでいるといわれる現代の社会のなか、ワタナベ君のような孤独を感じる人はこれからもどんどん増えていくのではないだろうか。とすればこの作品は今後もずっと読み継がれていくだろう。そしていつか孤独が辛くなったとき、僕もきっとこの作品を読み返すだろう。

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『ごんぎつね』(新美南吉)を読んで【小学生用】

 ごんぎつねくん、ごんぎつねくんが、いたずらばかりしていたのは、ひとりぼっちで、さみしかったからかな。おかあさんや、きょうだいは、どうしていないのかな。てっぽうで、ころされたのかな。だからにんげんに、いたずらばかりしていたのかな。でも、そのいたずらで、ひょう十のうなぎとってしまって、ひょう十のおっかあは、うなぎをたべられなくて、しんでしまったよ。
 ごんぎつねくん、まい日まい日、ひょう十のいえへ、くりをもっていったのは、いっぱいいっぱいはんせいしたからだろうね。ぼくも、いたずらしておねえちゃんがないたときは、いっぱいいっぱいはんせいするよ。ごめんねっていっしょうけんめいにいうよ。ごんぎつねくんも、ひょう十にちゃんと、ごめんなさいといえばよかったのにね。はずかしかったのかな。きつねだから、みつかったらてっぽうでうたれるとおもったから、こっそりくりをもっていったのかな。
 ぼくは、ひょう十にてっぽうでドンとうたれて、ごんぎつねくんがぱたりとたおれたところをよむと、めのところがあつくなって、下のはがじんじんしてくるよ。むねが、ぎゅっとなるよ。ごんぎつねくんが、ひょう十のうちへ、くりやまつたけをもっていっていたことを、ひょう十がしらなかったから、ころされちゃったんだね。
 ひょう十は、ごんぎつねくんのことを、ずっとわるいきつねだとおもっていたんだね。でもさいごに、ひょう十は、いままでじぶんにおくりものをとどけてくれたのが、ごんぎつねくんだとわかってびっくりしたんだね。
 てっぽうにうたれるまえに、ごんぎつねくんのいいところが、ひょう十にわかればよかったね。そうしたら、ごんぎつねくんもひょう十もひとりぼっちだから、いっしょにくらしただろうね。ごんぎつねくんもひょう十も、ほんとうはとてもやさしいから、なかよくなれるとぼくはおもうよ。


 
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『佐賀のがばいばあちゃん』(島田洋七)を読んで【中学生用】

 「がばいばあちゃん」の「がばい」とは、佐賀弁で「すごい」という意味だそうだ。だから、初めは単純に、食べる事にも困るほどの貧乏な生活をしていながら、それをものともせず明るく笑いとばして、預かった孫を育てあげた、「すごい」おばあちゃんの話なんだと思っていた。「お金がない生活イコール不幸」と決めつけないで、知恵を働かせて工夫していけば、そして、諦めず、前向きな強い心を持っていれば、それなりに明るく幸せに生きていけると教えているのだと。
 でも、僕にはどうしても心にひっかかることがひとつあった。それは、母親の元を引き離されて連れて来られた昭広少年に、何年ぶりかで会った時のおばあちゃんの態度である。もし、僕のおばあちゃんだったら、
「よく来たね。のど渇いていない。何か食べる。」
とか言って、ニコニコともてなしてくれると思う。しかし、このおばあちゃんは、昭広少年に優しい言葉をかけるでもなく、いきなり、ごはんを炊く方法を教え込んだのである。けっこう冷たいおばあちゃんなのかな、本心は迷惑に思っているのかな、とちょっと心配になった。でも、ふと思い出したのだが、いつかお母さんが、おばあちゃんに、
「こんな悪い点を取ったんよ。」
と、言った時、
「いい時もあれば、悪い時だってあるよ。博くんはがんばり屋さんだから、大丈夫よ。」
と僕の味方をしてくれたので、僕も調子に乗って、
「ホント、お母さんはいつもこれ。おばあちゃんみたいに誉めてくれたら、僕もやる気が出るのに。」
と言い返した。その時、おばあちゃんが、
「おばあちゃんは博くんに優しくしていればいいけれど、お母さんというのは、責任があるから、厳しいことを言うもんよ。」
と、答えたのだ。これを思い出した時、がばいばあちゃんは昭広少年を預かることになった時、「お母さん」になったのではないかと思った。孫に対して優しいおばあちゃんとして接するだけではすまない厳しい現実を前にして、昭広少年を立派に育て上げる覚悟を決めたのだと思う。と同時に、昭広少年にもその覚悟を分からせるために、いきなりごはんを炊く仕事を与えたのだろう。
 つらかっただろうなと思う。住む家もみすぼらしく、お米のない時だってある。育ち盛りの孫に腹いっぱい食べさせてやることも、ほしがるものを買い与えてやることもできない生活。がばいばあちゃんは心の中で泣いていただろうと思う。そう考えた時、がばいばあちゃんの本当のすごさが見えてきたように感じた。
 まず、貧乏であることを受けとめさせたこと。貧乏はつらいけど、知恵をしぼり工夫をこらして生活することを教えたのだ。しかも、悲愴感を漂わせながらではなく、明るさを失わせることなく暮らしたのである。その結果、昭広少年は、ただ人をうらやましがるだけの少年にもならず、またひねくれることもなく成長したのだと思う。
 また、我慢する心も植えつけた。剣道や柔道を習いたがった時も、その道具代を出してやれないばあちゃんは、走れ、それも裸足で走れと勧める。そこで投げやりにならず、校庭をもくもくと走り続けた昭広少年は、やがて学校一の俊足になる。それが生かされて中学校の野球部で活躍する選手となり、その実力が認められて高校進学も果たす。我慢して努力した結果だと思う。
 夢と希望を失わせなかったことも、がばいばあちゃんのすごいところだと思う。成績が悪くても「人生は総合力、足せば五になる。」と言ってくれる人がいたので、劣等感を持つこともなく野球に打ち込み、道を切り開けたのだと思う。昭広少年はがばいばあちゃんの、できないことも認めてくれる広い心がありがたかったにちがいない。
 「気づかせずにするのが、本当の優しさ」と気づかせた話には、心から感動した。運動会当日、母の応援もなく、粗末な弁当を一人で食べる昭広少年の寂しさを思いやり、腹痛と偽って、自分の弁当を食べさせた先生のさり気ない優しさが僕の心にも浸みた。
 お金があることだけが幸せではない。知恵を働かせ、工夫をこらし、ユーモアの心を忘れずに前向きに生きていく。我慢することを教えながらも、決して希望を失わせない。長所も短所も丸ごと受け止め認めてやる。厳しい境遇の者を笑いものにせず、かくれてそっと助けてやる優しさを持つ。これらはどれも、今の僕たちが忘れていたり、失ってしまっているものばかりではないか、と思った。恵まれた生活に慣れてしまって、こういう大切な心を見失ってきている僕たち……。そんな僕たちは、多くの大切なことをがばいばあちゃんに教えてもらったと思う。
 
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『それから』(夏目漱石)を読んで【高校生用】

 「無為自然」という言葉は、果たして現実世界で成立し得るだろうか。赤ちゃんに限ってのみ成り立つと言っていいだろう。いつの間にか高校生になり、すっかり愛想笑いが上手くなった私は、衝突を避け流れに身を任せることで精神の省エネと合理化を図り始めた。大学に合格するために勉強する。そんな方針は馬鹿げていると思いながらも、敷かれたレールから逸れまいと必死な自分に、どこか矛盾と空しさを感じることもある。
 そこへ、生活のための労働は誠実ではないという代助の言葉。冬の朝に顔を洗う冷水のように、それは私の脳に刺激的であった。生活のために働くということは、生活の糧を得ることが趣旨であって、労働そのものの内容や方向は全て糧を効率良く得るために統制される。すなわちそれは神聖とは言えないと代助は言った。私は大いにその説に賛同した。誰かに今の自分を戒めてほしかったのだ。勉強するのは好きだが、その内容は大学進学という結果を越えたものでなければいけない。私はまったく味方を得た気分である。別の目的のために何かをするということは、その行動に対して失礼なのである。その時間に対して無責任なのである。ひいては、今を生きる自分自身に対して無関心の状態である。私たちは限りある生命で「今」を食いつぶし続けて生きている。私たちが感じ得るのは今この瞬間の喜び、驚き、絶望だけである。勉強するために勉強し、生きるために生きるのでなければ、今現在進行している私の命を無駄にしてしまう。それが「無為自然」実現のための一要素ではないのか。
 私はこんなことを考えて、表面的な自分の生活を蔑むことで楽しんだ。代助もきっと同じだったのだ。己の理想を正統化・神聖化することで、自分はなんて深みのある人間なんだと酔いしれる。そんなことをするのは自己実現の努力をしない恵まれた甘えん坊だけだと、私は後から気付くのだが。
 しかし代助は変わり始める。代助には大切な人がいた。その人を不幸な境遇から救いたいと願った。しかしその女性は親友の妻である。代助は言葉にならない苦悩の渦へ陥る。金を工面してもらえないかと言われても、代助は無職の遊び人。女性の前では俺に任せろと言うことができても、その資金の調達先は父や兄である。代助の心の中に湧き上がる、自身の生活力の無さに対するいらだち。その点については私も無能力と言える現状なので、代助の焦りが生々しく迫って来た。今まで通り親から金をもらうには、親の言う通りにしなければならない。政略結婚に身を任せるか、親友の妻を奪って家族と絶縁するか。人生はいつも私たちに恐ろしい選択を強要する。どちらをとっても必ず苦しみが待っているという残酷さ。何も欲しがらなければ苦しまなくて済むのに。ただ流れるままに生きていれば、後悔などしなくていいのに。
 でも代助は本当に親友の妻である三千代を愛していた。いつもの代助ならまあいいか、で終わらせるところを、三千代のことだけは諦められなかった。代助は初めて、心の底から欲しいものに出会ったのだ。三千代への愛は、普段の代助の精神を奪い、代助を逆境へと駆りたてた。複雑にからまりほどけそうもないような想いを、ただ一直線に女に差し出す代助。その姿は、今までの理屈をこねるだけの代助とはかけ離れ、輝いていた。こんなにも純粋な行動が他にあるだろうか。と思うと同時に、私はこれまでの自分の思い違いに気付く。人は、何か物質的な、または精神的なものを切に欲しがった時初めて、本来の底力を発揮できるものなのだ、と。働くために働き、生きるために生きる。それはとても美しいし、やはり私の目指すところではある。しかしあまりにも綺麗すぎて、どうしても手に入れたいという醜く切なる願望のもたらすパワーを失ってしまう。代助は三千代を勝ち得た代償として、家族からの資金援助を絶たれ、交流も絶たれた。今までの生活を全て捨て去る覚悟を持ってこそ、未来を手に入れるチャンスが与えられるのだ。私には、そこまでして欲しいものがない。だから何をしても無機質で、面白味がない。敷かれたレールで運ばれて行くか、自ら道をかき分けて進んで行くかは、私さえその気であれば、選ぶことができたのだ。いや、これからだってできるのだ、目標があれば。
 代助はこれから波乱の人生を歩んで行くこととなる。職を求め、社会の逆風に立ち向かって前進するうえで、彼の道徳に反する行為を迫られることもあるかもしれない。それでも彼はきっと選択し、やり遂げるだろう。自分の欲しいもの、守りたいもののために。それでいいのだと思える私がいる。「無為自然」でいるよりも、私は何かを成したい。代助にとっての三千代であり、私がまだ見つけていないもの、今の自分を全身全霊注ぎ込めるような目標を見つけ、追い求めていきたい。
 
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『博士の愛した数式』(小川洋子)を読んで【高校生用】

 「ルート」ってなんて優しい記号なんだろう。
 「どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号」
これは博士の言葉だ。目に見えない、書き表すことのできない数字を、ルートの中にいれてやると、誇らしげに、立派な一つの数字となって私達の前に姿を現す。決してどんな数字でも、ルートは中に入ってきたものの全てを難なく受け入れてくれる。その数字がしっかりと足で立てるように、柔らかい優しさをかぶせてくれる。きっと「私」にとって、博士の存在もルートだったのだろう。
 主人公である「私」は高校三年生の時に妊娠し、一人で子供も産み、家政婦の仕事をして育ててきた。「私」の母は娘の妊娠に激怒した。母も同じ経験をしたから、父のいない子を産み育てる苦しさを知っていたからこそのことだと思う。そんな過去を持つ「私」や息子には博士の存在はとても温かいものだっただろう。決して博士が直接、優しい言葉や行動を「私」に投げかけることはないが、他人の目を気にする母のもとで育った「私」にとって、博士といる時間は、とても心地良い、心休まるものだったのではないかと思う。博士にとって大切なのは目に見えていることだけではなくて、内面にある深いものを読みとっていくことなのだろう。一方、「私」の息子はとても素晴らしい少年だ。博士には「ルート」というニックネームをつけてもらった。きっと彼は生まれて初めて平らな頭であることを嬉しく思っただろう。ルートは父はいないし母は仕事なので、家では一人のことが多いはずだ。もし私がルートだったら、寂しくていじけてしまうに違いない。だが彼は、自分と同じくらい寂しい思いをしている母に気づき、思いやることができた。彼は本当の「思いやり」を知っていた。博士の子供に対する愛情は果てのないもので、ルートはいつも博士の大きな腕にすっぽり包まれていた。そしてルートもそんな博士に対して、いつも精一杯の思いを込めた行動でかえしていた。
 博士の記憶は八十分しかもたない。私はそれがとてもしかった。三人の仲は決して八十分以上深くはならない。どんなに貴い時間を一緒に過ごしても次の日に博士がそのことを覚えていることはない。事故に遭った日から博士の思い出が積み重なってゆくことはないのだ。悲しいのだけれど、この本からそっと流れてくる空気は激しい悲しみではなく、少し切なく、そして美しい静けさを漂わせていた。何故なのだろう……。もしかしたら博士の病気は世界を表しているのかもしれない。博士は毎日、新しく生まれて来ているのかもしれない。誰かが死に、誰かが生まれるように。誰かが残していった想いを、誰かが受け継ぎ、またそれを繰り返していくように、博士も日々生まれては、過去の自分から数式を受け取り、未来へそれをつなげていっているのかもしれない。数式はいつまでもかわらずにそこにあるからだ。
 私はこの本で数学の美しさを知った。数学がこんなに綺麗なものだったなんて知りもしなかったし、そんな風に考えること自体思いもよらなかった。私はこれまで、自分が数学が苦手教科な事もあって、数学なんか何であるんだろう、日常生活で役に立つ事なんかほとんど無いじゃないか、と思っていた。でも「数学の存在の意味を考える」という事が間違いなんだと思った。数学は私達がその存在を知る前から私達の側に存在していて、純粋に美しい一つの世界なのだと気付いた。数学を学ぶ事は、宇宙に秘められた謎を解明していく、目に見える姿にしていく事なんだと思った。友愛数や完全数といった数字達は、二つの数字の間に隠された関係や、一つの数字が背負っているものの重さに気付いた途端、ただの数字ではなくなる。両手でそっと包み込みたくなるような、はっと見上げてしまうような、こんな素敵な数字の存在を知らないまま生涯を終える事がなくて良かったと思う。一見ただの数字であったり、頭を悩ます嫌なものだったりする数字。でも実は健気で美しくて裏切りのないもの。色々なものがうごめいて、底知れない暗さや濁りをもった、この世界の中に存在している、真っさらなものの一つなんだと気付いた。私はこの本のおかげで前より数学を好きになりそうだ。
 博士のように繰り返し繰り返し始まる人生、世界。博士のような、素直に美しい物を追い求め、教え伝えていこうとする気持ちを持ちたい。博士やルートはどんな状況におかれても、自分にとってプラスになるような考え方ができる。それは彼らがこの世に存在している、幸せになるための手がかりを見つける努力を怠らなかったからだろう。だから私も身近なものに美や感動を見出せるような見方ができるようになりたい。きっと私の心を動かすものは、ずっと前から側にあって、光の角度によって輝きを現すだろうから。


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